ADの日記: 私は正義にあらず。エゴイストである。
日記 by
AD
どうも私は勘違いされていると思われる。まあ、私の態度が気に食わないというのはわからなくもないけど。(私は私みたいなヤツは嫌いだ。屁理屈だし、馬鹿だし、無知だし、寝不足だし、意地っ張りだw)
はっきり言っておくと、私は正義に基づいて何かを主張したりはしない。
なぜならば、正義という概念があまりにも曖昧であるからである。加えて、正義とは悪である。
正義というのは、観測者から見た価値観の肯定であり、私が正義に基づいて何かを主張したとしても、それは私から見て「正義である」と位置づけられること以外の意味を持たない。
転じて、正義とは己の利権や名誉を守る行為であることが多いため、ある人の正義の主張は他者にとっては悪意ある主張であることが存外に多い。故に正義を通すことは、他人の視点では悪なのである。
個人の正義と個人の正義とのぶつかり合いは、当事者からすれば自分の正義と悪との衝突であり、視点を広くしてみればエゴとエゴのぶつかり合いでしかない。
意識的でない人は、自分の「エゴ」を「正義」として肯定せずにはいられない。しかし、「正義」というものの本質を考えれば「エゴ」を「正義」と言い換えても何も解決しないことは自明。それは狭義の正義にしても広義の正義にしても観測者に寄ると言う点では変わりない。
私は「自分の正義」は「他人にとっての悪」であると認識しているから、正義に基づいて主張することはない。実際に正義は多くの敵を生む。正義に基づいた主張をすれば、それこそアレルギーのように嫌ってくれて思考停止とわめいてくれる人も必ず現れることであろう。
私はエゴを正義に置き換えるような手間のかかるまねはしない。私が物事に意見するのは、正義ではなくエゴからである。
ベーコンがかつて言ったように「我思う故に我あり」ではないが、私が意見を持つのは、私が取り入れた情報に対して何らかの内部的リアクションが起きたときであり、内部的リアクションとは即ち「思う」ことである。
ならば、すべての思考、意見は「思う」ことから生じているではないか。
私の考えうる「思う」ことができるモノは「私という人間/人格」であり、突き詰めて言うと「私のエゴ(自我)」である。
エゴ、或いは自己満足を否定してみたとしても、自己人格否定、極論すれば前に書いているように生命そのものの否定にしか帰結せず、結局はエゴを否定して人間は生きていけない。宗教的に言えばそれが人の原罪であろう。
私はエゴイストであることを否定できない。しかし、私はエゴイストであることを認識している。本当に危険なのは自分がエゴイストだと気付かない「狂信者」ではあるまいか。使命感に駆られたテロリストも、教育を強要する教育ママも、正義として自らの行為を肯定しエゴイストであるということから目を背る。結果としてあるのは正義の押し付けである。
自覚しているエゴイストはエゴイストであるが故に、ある線の過ぎたるエゴを許すことができない。要するにそれが誇りであったり、自尊心であったり、道徳心であったり、良心だったりするのだろうが。まあ、これらについては「正義」の人も適用できるかもしれないが、期待は薄い。
しかし、自分がエゴイストだと自覚していることが重要なのは、自分がエゴイストであると考えられる余地があることにある。
自分の中の「客観の自分」が自分をエゴイストとして捉えることができるのは、自覚あるエゴイストだからである。自覚なきエゴイストは疑う余地も、思い返す余地もない。なぜならそこには正義があり、自覚なきエゴイストにとって正義は疑うべきものではないのだから。
…と言うようなことで、私はエゴイストであって正義派ではない。
言葉の違い。意識の違い。一見同じもののように思われるかもしれない。しかし、正義とエゴとは必ずしも等価な存在ではない。
はっきり言っておくと、私は正義に基づいて何かを主張したりはしない。
なぜならば、正義という概念があまりにも曖昧であるからである。加えて、正義とは悪である。
正義というのは、観測者から見た価値観の肯定であり、私が正義に基づいて何かを主張したとしても、それは私から見て「正義である」と位置づけられること以外の意味を持たない。
転じて、正義とは己の利権や名誉を守る行為であることが多いため、ある人の正義の主張は他者にとっては悪意ある主張であることが存外に多い。故に正義を通すことは、他人の視点では悪なのである。
個人の正義と個人の正義とのぶつかり合いは、当事者からすれば自分の正義と悪との衝突であり、視点を広くしてみればエゴとエゴのぶつかり合いでしかない。
意識的でない人は、自分の「エゴ」を「正義」として肯定せずにはいられない。しかし、「正義」というものの本質を考えれば「エゴ」を「正義」と言い換えても何も解決しないことは自明。それは狭義の正義にしても広義の正義にしても観測者に寄ると言う点では変わりない。
私は「自分の正義」は「他人にとっての悪」であると認識しているから、正義に基づいて主張することはない。実際に正義は多くの敵を生む。正義に基づいた主張をすれば、それこそアレルギーのように嫌ってくれて思考停止とわめいてくれる人も必ず現れることであろう。
私はエゴを正義に置き換えるような手間のかかるまねはしない。私が物事に意見するのは、正義ではなくエゴからである。
ベーコンがかつて言ったように「我思う故に我あり」ではないが、私が意見を持つのは、私が取り入れた情報に対して何らかの内部的リアクションが起きたときであり、内部的リアクションとは即ち「思う」ことである。
ならば、すべての思考、意見は「思う」ことから生じているではないか。
私の考えうる「思う」ことができるモノは「私という人間/人格」であり、突き詰めて言うと「私のエゴ(自我)」である。
エゴ、或いは自己満足を否定してみたとしても、自己人格否定、極論すれば前に書いているように生命そのものの否定にしか帰結せず、結局はエゴを否定して人間は生きていけない。宗教的に言えばそれが人の原罪であろう。
私はエゴイストであることを否定できない。しかし、私はエゴイストであることを認識している。本当に危険なのは自分がエゴイストだと気付かない「狂信者」ではあるまいか。使命感に駆られたテロリストも、教育を強要する教育ママも、正義として自らの行為を肯定しエゴイストであるということから目を背る。結果としてあるのは正義の押し付けである。
自覚しているエゴイストはエゴイストであるが故に、ある線の過ぎたるエゴを許すことができない。要するにそれが誇りであったり、自尊心であったり、道徳心であったり、良心だったりするのだろうが。まあ、これらについては「正義」の人も適用できるかもしれないが、期待は薄い。
しかし、自分がエゴイストだと自覚していることが重要なのは、自分がエゴイストであると考えられる余地があることにある。
自分の中の「客観の自分」が自分をエゴイストとして捉えることができるのは、自覚あるエゴイストだからである。自覚なきエゴイストは疑う余地も、思い返す余地もない。なぜならそこには正義があり、自覚なきエゴイストにとって正義は疑うべきものではないのだから。
…と言うようなことで、私はエゴイストであって正義派ではない。
言葉の違い。意識の違い。一見同じもののように思われるかもしれない。しかし、正義とエゴとは必ずしも等価な存在ではない。
私は正義にあらず。エゴイストである。 More ログイン