ADの日記: 不毛だと感じる批判方
あらゆる消極的概念に基づく批判は不毛だ。消極的とは「自分はしたくない」、「させたくない」ということが基幹になっているものだ。
一見、「自分が嫌なものは皆も嫌であろう」というのは正当のように見える。しかし、そういう人間に限って、『自分の意見』を『皆の意見』にすり替え、相手をやり込めることにのみに熱中する。
一体誰が「自分が嫌なものは皆も嫌である」と断じることができようか。転じて、「自分が好むものは皆も好む」と断じることができようか。個人の感情論を押し付けは甚だ説得力に欠く。
まず、理屈合戦で『己』を直接持ち出せば泥仕合だ。そのため『己』から一つ距離を置いて自分の意見を述べる必要がある。
『己』を直接持ち出さずに論争を行うには二つの方法がある。それは『合理性』を持ち出すか、『皆』や『世間』『社会』などという概念に『己』とをすり替えることだ。
前者が『理』を持って事を分析し、結果を述べるに対し、後者は『己』隠しつつ『己』の意見を通すことに勤める。
考えの起点が「自分はしたくない」「させたくない」などの消極的概念でも、結果的に述べられる意見が消極的とは限らない。問題なのは、ただそれだけで意見を押し通そうとする場合だ。
『常識』だの『世間』だの『皆』だのという概念が持つ『権威』あるいは『権力』といえるものは非常に利用しやすい。そのため多くの人間が自らの意見に『権威』とか『信憑性』とかを持たせるために、それらの概念を用いてしまう。
確かに『個の意見』と『集団の意見』では、集団の意見が通らざるを得ない状況が多いのも事実だ。なぜなら群れの中では『集団の総意』を『個の意見』が凌駕することは、まず在り得ないからだ。仮にも民主主義などというものを信奉しているのなら尚更だ。
消極的概念が基幹を成す批判がなぜ不毛かといえば、消極概念そのものは理論ではないからだ。
理論、特に合理性がないものに権力はない。故に個の意見を押し通すために、集団の意見という権力を装いたがる(権力に逆らうことは一般に非合理的であるから)。しかし、その幻想の権力を装い、それを武器とすることこそ、自らの意見が真の合理性を有していないと声を大きくして述べている等しい。
理論的合理性がない意見を述べることは不毛だ。なぜなら、それには何の説得力もない。誰も納得しない。何も解決し得ない。──何の力もない──からだ。
稀に消極的概念と理論が表面的に一致する場合もある。しかしそれは、理論が立った時点で「消極的概念」は起点に成り下がる。
したがって、消極的概念が基幹を成す批判は、不毛である。
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