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ADの日記: 「教える」という凄まじきこと

日記 by AD

教えるという行為は、私が知っている行為の中でも特に「凄まじい」部類の行為だ。動作一つ取ってみても、その根底には無数の要素が存在し、あるとき不意に「そう成すべき」と理解したようなこともある。或いは、本人にもその行為の本質が何なのか理解できないこともある。それを人に教えるという行為は、まさに凄まじき行為だ。

教えるという行為が凄まじい行為だとしても、全く不可能なことではない。ある「端」だけを教えることは可能だ。しかし、それは応用力のない理解であって、非効率的な知識の吸収になる。もちろん、その「端」だけを教えなければならない場合もあるだろうから、一概にそうは言えない。しかし、車の運転手に「さわり」程度でもハードウェアの知識が要求されることを考えれば、体系的、全体的、基盤的知識があるほうが良いことは想像に難しくない。

「端」だけ教わるというのは、自分自身で一連のプロセスにおける行為の再構築/最適化を行うのが不可能な状態だ。連携すべき行為を知らぬのに、最適化できるわけがない。ある一つの動作は、一連のプロセスの一部だ。したがって、他の動作と効率的に連携作用しなければならない。ゆえに、体系的な理解、全体的な知識、本質、などというものを理解すべきと言われるのであろう。

我々が欲するのは、作業全体の短縮/効率化であって、局所のみ最適化しても全体的に悪くなれば意味がない。もちろん、全体の効率化を図るために、局所の最適化を図らねばならぬ場合もあるが、それは全体を「ある程度」知っている者だけが出来る勘定である。「ある程度」というのは何処まで端折れるものか、という問題もあるが、それは別の機会に書く。

「技術は習うものではなく、慣れるもの」という言葉がある。これは一面の真理であろう。「表現なき理解は、本質的な知ではない」とする人もいるほどだ。技術という道具は、使い慣れなくてはならない。しかし、これは単純に「慣れろ」という意図を持った言ではなく、教えるという行為の限界と、教わるという姿勢への戒めが込められていると思う。

使い慣れるということは、実際の作業のリハーサル/追体験をすることである。作業プロセスを通して、「実際に効率的に仕事をこなすにはどうしたら良いか」という問いを、己に強要する機会である。その結果、無意識的に効率化されることもあれば、意識的に効率化されることもある。また、使い慣れる段階において、体系的な知識が身に付くことも重要な要素だと思う。

話を本旨に戻すが、教えるという行為の凄まじき点は、その結果が単純に教える側に依存するのではなく、教わる側が大きな鍵を握っていることにある。教えるという行為の結果は、最終的には教わる側の姿勢次第だ。やる気のある人はすぐ成長するし、やる気のない人は全く成長しない。この差は、教わるという姿勢をどう捉えるかによると私は考える。

「教わる」という言葉は、言葉としては受身の言葉である。しかし、実際に受身で教えてもらったことが、どれぐらい意識に残るだろうか。どれぐらい身に付いただろうか。「教わるという姿勢」を「受身」とするのは、車でラジオを聴くようなものではないだろうか。多くのものは、すぐに右から左に抜ける。知識や技術として残すためには、受動的ではなく、能動的に活動しなければならない。故に、教わるという姿勢は「なぜ、そのようになるか」を追体験する姿勢、つまり、受動的ではなく、能動的でなければ効果が薄いと考えられる。

教えるからには、少なからず良い結果を出さねばならない。しかし、教えるという行為には、時間も手間も知識も限界がある。そこから効率よく知識を吸収するためには、「教わる側」も能動的に挑まなければならない。「教わる側」にそれを必要とする、教えるという行為は、凄まじい行為だと私は感じる。

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犯人はmoriwaka -- Anonymous Coward

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