ADの日記: 言語とイデオロギー
しばしば、言語は「単なる道具」として評価される。これは、「内容の伝達」が至上目的であり、言語はそれを達成するのには有用であるが、それ以外では言語に大した価値はない、という評価に基づいている。言い換えれば、「手段なんぞ何でも良い」と考えているから、「単なる手段」という評価を下しがちになる。
「手段」が手段以外の何者でもないことは一応認めておこう。しかし、文学、特に詩的な価値観を抜きに考えるにしても、言語は我々にとって大きな存在なのは明らかだ。
言語は思考を規定する。複数のプログラム言語に触れたことのある人であれば、幾度か意識した経験があると思うが、ある言語には特有のイデオロギー──価値観・発想・思考傾向──がある。長らくJAVAを使っていると、JAVA的なものの捉え方をする。もちろん、言語が思考を規定するのは、プログラム言語ばかりではない。自然言語も同様だ。
言語を習得することは、もちろん文法なども大切なのであるが、もっとも肝要な点はイデオロギーを理解することであると私は思う。JAVAを使って、まるで前世紀のCのようなプロセス主義のソースを書く人がいても、多くのJAVAプログラマはその人をJAVA使いだとは認めたがらないだろう。
言語が思考を規定する作用で、実際に白黒と規定付けているのは文法にあたる。しかし、言語が持つイデオロギーは文法で白黒つかない部分まで規定しうる。例えば、「彼は暑い」といえば日本語として変な感じがするが、「彼は暑そうだ」とか「彼は暑がっている」といえば、それなりに妥当だと思える。JAVAにおいても文法上では問題ないが、「JAVAらしくない」ソースというものが発生するが、そのソースが「JAVAらしくない」のはイデオロギーの消化不良を起こしているためだろう。
要するに、ある言語は、特有のイデオロギーに沿った使い方をしなければ不整合を起こすということである。
言語を「単なる道具」と考えること自体は大した問題ではない。しかし、結果的に「目的の消化不良」を起こすことを軽視すべきではない。そもそも、言語がなければ表現できないということを無視しするのは如何なものか。本当に「単なる道具」か。
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