ADの日記: 雑感─HTMLとか。
要するに、HTML利用者の対立は、HTMLをコードとしてみている人と、そうでない人の対立なんだよなぁと。
言語におけるコミュニケーションは、解読と解釈の2通りの理解方法がある。解読は、共通の、意味が通じる語彙集合であるコードを用いて行うコミュニケーションだ。対して、解釈は事前にお互いの了解がない場合に使用できるコミュニケーションであり、伝達される内容を推測や質問によって補完し、正確に読み取ろうという理解法だ。
解読は、概ねあらかじめ決められた内容を伝達・理解するために用いられ、これは機械的な無駄のないコミュニケーションに長ける。解釈は、より実際の対人関係でのコミュニケーションに近い。言葉で表現されたことから、コンテキスト──相手が本当に伝えたいこと──を見出せるように、推測し意味を補完し、必要とあらば質問を返し、理解を試みる。
コードのよいところは、予め意味の定められた規則にしたがって用いられるため、参照表を見ればそれだけで解読には事足りる点にある。量や階層の深さにもよるが、コードは人間にとっても便利な存在だ。なぜなら、意味を推測する必要がなく意図を誤解される恐れがない。
もちろん、コードは規則に従っているからこそ、正確かつ強力に意味を持つものになるが、規則が破られればその利便性は低下する。
HTMLをコードとして理解している人間は、HTMLに人間的冗長性を過剰に求めたり、規則に反する記述をすることを嫌う。それは、コードとしてHTMLを扱う立場においては、当前のことだ。そもそもHTMLはUser Agentに解読されるコードであるから、規定された以上の自由が許されるべきではない存在とも考えられる。
だとすれば、旧来の[製作者→HTML文書]式の文書作成法よりは、[製作者→オーサリングツール→HTML文書]式のほうが、コードを生成するという目的においては、論理的には優れた方法であるといえる。
何が言いたいかといえば、初心者はHTMLを覚える必要も、見る必要も、意識する必要も無く、素直にツールを使うべきであるということ。あと、HTMLの概念を理解せずにHTMLを記述している中級者は、素直にツールを使えということ。
問題はツールのほうにある、というのは私も異存ない。ただ、ユーザ側は、使い慣れたとか、惰性でタコなツールを何時までも使い続けるようなマネだけはしてくれるなと言いたい。ベンダは、誤ったコンセプトで開発された自社のプログラムに責任を負わない。もし責任を負うというなら、MicroSoftやIBMらは、どれだけのコストを捻出せねばならないか、計り知れないだろうし。
Web製作を生業としている人の何人かは、心の中では標準化を望んでいるのだけれども、自らのレガシーなスキルが使えなくなるとか、現状云々の関係から、自分たちの首を絞めるようなレガシーなソースを作り続けていることだろう。
何時までもこんな世界に往き続けたくはあるまい。もうあれから何年たったか。
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