ADの日記: オタク的な を。
多様性のある固体からなる集合を一言で述べるのは難しい。しかし、それを行なわないで語るのはもっと難しい。
人種によるグループ化、地域によるグループ化、職種によるグループ化、傾向によるグループ化、性質によるグループ化、素材によるグループ化…。モノを語る上では常に何らかのグループ化が付きまとう。
言葉の定義は一定ではない。各々が各々の内にある定義を込めて言葉を扱う。ある言葉が褒め言葉にもなり貶し言葉にもなるのは、個人の言葉の定義──経験、見識、偏見──によるところが大きい。
オタクとは、ある人々をいい表すために便宜上発生した言葉に過ぎない。オタクという言葉に実体なんてない。オタクという抽象体に置き換えられた時点で、その言葉を発した当人以外には実体なんてものはなくなる。ただのイメージになる。
オタクは社会性がないとか言う考え方も、ある面では真だが、ある面では偽だ。それはオタクという言葉が、ある個体に対するイメージではなく、ある集合に対するイメージなのだから、当然といえば当然だ。オタクという集合は、単一の性質や共通の性質のみで構成されているわけではないだろう。集合の性質は集合の性質に過ぎず、個体の性質と必ずしも一致しない。個体レベルまで落とし込めば、集合に対するイメージと反する性質を持っていることも多々ある。
仮に、オタクを「何かに熱中する個体による集合」だと定義する。そしてオタクである個体を「何かに熱中するために注力する個体」だとするならば、社会に対するオタクの態度は
- 社会との関わりを最小限に抑え、趣味に没頭する。
- 社会との摩擦を最小限に抑え、趣味に没頭する。
という2極的な態度が考えられる。
前者が、社会性のない典型的なオタクの悪いイメージに対し、後者はある程度の社会性を維持するタイプのオタクだ。私が思う限り、ここ10年ぐらいでオタクの主流は後者になったと思う。それこそ、「オタクがいなくなった」なんていう人もいた。まぁ、オタクなんてのは、大抵、人の見えないところで自分の楽しみを満喫しているのだから、見えてこないないだけかもしれない。
オタクという言葉に囚われるのはナンセンス。オタクという言葉を自分に対するエッセンスの一つとして──或いは、自負や誇りとして──捉えるのであれば、それは良い面もあるだろう。しかし、どっかのバカが悪いイメージの集合──偏見──だけで発するオタクという言葉に気をやるのは、オタクとして実にナンセンスなことだと思われる。オタク、非オタクにかかわらず、DQNはDQNなのだから、放置必至。
そもそも、一般人なんて人間はいるのかい? 私はそれぞれに個性のある個人は見たことがあるが、一般人という集合の実体を見たことがない。オタクも一般人もイメージに過ぎんよ。くだらない。
オタク的な を。 More ログイン