パスワードを忘れた? アカウント作成
14055028 journal
日記

ChaldeaGeckoの日記: ひかララ

日記 by ChaldeaGecko

女の子の格好をしているのは女の子。これがあたりまえ。でも違った。
友だちのいない子はさびしい。これがあたりまえ。でも違うかもしれない。
ひかるはたぶん「友だちがいなくてもさびしくない子」だ。味の違いはわかるけど、なにも食べたくはない、という感じだろうか。彼女にとっては多様性の七色の虹も、ギャートルズの石の通貨を半分に割ったものにしか見えないだろう。
だからその先のしあわせも、存在するという実感はない。ブルーキャットを、目をつぶって乗り越えることでしか、しあわせにはたどり着けない。そのためにはやはり、ブルーキャットが一発、ひかるにアッパーカットを決める必要がある。

東映アニメーションは(非常に限定されてはいるが)暴力を肯定している。〇ビもそうだ。どうも人は殴られると「自分にとって大切なものがなんであるか理解する」ようだ。「リンかけ」も「宇宙戦艦ヤマト」もそうだ。
ひかるは「友だちがいなくても(主観的には)さびしくない子」だが、それは客観的にはよくない状態で、他人がなんとかして「友だちがいる子」にすべきだ、というのが東映アニメーションの考えのようだ。つらくないなら放っておけば、というのももちろんアリだが。そして他人がそれをなんとかするには、暴力しかない、というのがプリキュアだ。
ものごとを他人に教えるときには、暴力をふるってはいけない。だが、他人に気づかせるときには、暴力以外に方法はないのかもしれない。キュアエールがミデンの心に侵入するときも、とても暴力的だった。人は、拳で語り合うためでない、宇宙人ハンターのような悪意の暴力からでも、気づきをえることはできる。ブラックファングのように殺されなければだが。
〇ビもそれに賛成だ。〇ビは「倫理的」ということばを特殊な意味で使っていて、それは「自分の身を守れること」だ。他人を守ることではない。「友だちがいなくてもさびしくない」のは、友だちが守ってくれないので、明らかに非倫理的だ。もちろんこれが正しい考えかただというわけではないが、東映アニメーションとは考えが近い。
殴られて気づいたもの、たとえば友だちを思う気持ちは、なんとよべばいいかわからないが、とにかく、自分が気づいた自分だけのものだから普遍性はないし、友だちにあげたりもらったりもできない。友だちにもらったりあげたりするもの、友情や愛なのだろうか、それは気づきそのものではなく、その影のようなものだ。オブジェクト指向でたとえるなら、気づきはオブジェクト、友情は参照に相当するだろう。オブジェクトはもしそっくりにコピーできたとしても、アイデンティティは別ものだ。だれからも参照されなくなると、オブジェクトはゴミになる。ひかララのようにふたりが相互に参照すれば、あとはだれからも参照されなくてもゴミにはならない。

ハピネスチャージプリキュアのキュアラブリーは、他人の役にたっていなければ自分を好きになってもらえないと考える子だった。これは健全とはいえないが、よくある話だ。キュアプリンセスなどチームメイトはその点では健全で、他のシリーズと同様、友情と戦いの物語だった。だからチームメイトがラブリーにいだく友情は本物。でもラブリーは最後まで病んだまま。チームメイト同士ではラブリーの参照は一貫しているから、ラブリーの自己参照と、チームメイトの参照が一致しなかったということだ。あるいはラブリーのオブジェクトそのものが壊れていたからだ。普通の物語では、ズレていた参照が物語を通じて一貫したものになっていくのだが、ラブリーは壊れたまま終わってしまった。彼女の情緒不安定や多幸感や残酷さも、こう考えると必然的だ。物語運びにはおかしなところはないから、すべての原因は彼女の設定、ラブリーのオブジェクトが壊れていたことにあるとしかいえない。
前の段落をいいかえて、「人は暴力をうけて自分を築く」とすると、ラブリーが自分を築けなかったのは、彼女は暴力をうけたことがないから、となる。暴力を傷つけること一般にして、「ラブリーはこれまで一度も傷ついたことがない」これがすべての原因だ。ラブリーが他のプリキュアにまして苦しんでいたのは事実だから、彼女は苦しみ損をしていたことになる。人は傷つけられると「悪いもの」と同時になにか「善いもの」も受け取る能力があるが、ラブリーは後者の能力を欠いている、ということだ。彼女はどんなひどい目にあっても傷つくことすらできない。これは事故なんだろう。ハピネスチャージプリキュアでも「悪いもの」に対する「善いもの」を見せるつもりだったが、出発点を間違えてしまったため、それができなかったんだと〇ビは思う。友だちと自分で参照がズレているのは神経症だが、善いものを受け取る能力を欠いている、傷つくことがないのなら精神病や宗教的偏執だ。どちらもしあわせの対極にあるので吉外というのだ。もっとも、そこでお茶を濁して釣銭を取り戻すのではなく、追い銭するのが東映アニメーションのすごさだが。

「善いもの」を総称して<生>とよんでおくことにする。総称だからなにかを指すことばではない。「悪いもの」も同様に<無>とよんでおく。オブジェクト指向でたとえると、オブジェクトが「生きていること」「なくなっていること」だろうか。これらは言語要素が指したり指されたりするものではなく、言語設計者とユーザーの頭の中にしかない。<ものごと>も、作品中で直接描かれることはなく、作家と視聴者の頭の中にしかないし、物語の論理はクラスベースではないので、<>は言語要素であるクラスには相当せず、あるものを<>に入れるか入れないかの判断は、個人によって異なる。どれかひとつでなく、作品をくりかえし見て、<生>や<無>という考えが、ある日突然ひらめく。pythonを使っている人が、ある日突然ひらめいて、オブジェクト指向を理解するというイメージだ。ストーリーを理解して楽しむことは本質的に異なり、後者は個別のプログラムを理解することに相当する。
<生>や<無>を描くことはプリキュアに限らず文学の一大目標だが、本質的に描けないものをレリーフのように描くのだから非常な困難ごとだ。描かれる友情や苦しみはあくまで物語の中のものであって、<友情>や<苦しみ>とは階層が違う。頭の中で結びついているだけだ。だが、あまりにも頭の中の結びつきが強いため、視聴者は友情や苦しみが<友情>や<苦しみ>そのものだとすぐに誤解してしまう。だから芸術指向の作家は友情や苦しみはあまり描きたくはないし、プリキュアでは実際に、恋愛や近い人の死は表面的にはあまり描かない。しかし、視聴者の頭の中の結びつきは、強化されるときに強い感動を生みモチベーションをもたらすので、そういうのをナシにすると娯楽性が低くなり純文学にかたよりすぎてしまう。逆に言えば、作品中で直接描かれているもの、かわいい女の子とか、友情とか、バトルとか、多様性とか、そういったものは、文学的にはたんなる記号、文字のようなもので、書道をするのでなければ意味は持たない。文学を深層学習にたとえると、芸術が学習で娯楽が推論だ。推論しないなら学習は無意味だし、感動しなければ学習できないが、学習しなければまともな推論はできない。創作と評論の違いは物語の論理を使うか日常の論理を使うかだけ。ボトムアップとトップダウン、存在論的と認識論的ともいえる。物語の論理とは無意識の論理で、ユングみたいなことを言うとオカルト扱いさるが、脳のハードウェアのロジックと考えてほしいルン。それだけではカバーできない領域のため、人類は日常の論理を発明したルン。精神病者の特権として、無意識の論理に直接触れることができるルン。だいたいロクなことにならないけど。
友だちができれば<孤独>が深まる。彼女は恋を選び<友情>を捨てる。キラキラの記憶は、そこに入れてもらえなかった人の<疎外感>とひきかえだ。彼女が微笑んでくれたなら、自分は<無>になってしまう。多様性を描けば、<女>も<男>も失われる。喜びや悲しみを描けば<気持ち>は軽くなる。生や死を描けば<命>が軽くなる。あちらをたてればこちらがたたない等価交換が物語の論理だ。でも感動だけはなにをやってもマシマシだから論理の外のもので、いちばん近いのはポルノであり、だから本質的に重要な要素ではあっても、論理と混同してはいけない。もうひとつ、論理から外れた重要な要素はダジャレだルン!ちなみに、死亡フラグは物語の論理を日常の論理で説明したもので、立派な評論のひとつだ。
オブジェクト指向と同じく、<生>と<無>は特別な存在だ。他の<ものごと>は、いってみればオブジェクトの属性にすぎない。とはいえ序列はあり、文学では<>がチャンピオンだ。なぜなら<恋>は<正義>などとは違い、人に言えない、隠していることでもっとも輝くからだ。人に言えない、でも知ってほしいという<恋>の性質は、文学そのものといっていい。また、<恋>はチャンピオンだから引きかえにできるものがない。だからかわりに<友情>を失うのだろう。それがたぶん世界第二位なのだ。どういうわけか、恋する人はアッパーなときもダウナーなときも、概して適切に傷つくことができない。恋する人は精神病者に似ていて、半分生きて半分死んでいる。よく言えば、<生>と<無>の橋渡しをする。恋愛御法度なプリキュアも、再点検したら<恋>が描かれているかもしれない。キュアラブリーはかわいそうに、誠司とくっついたかわりに彼との<友情>まで失くし、本当にガラクタみたいな子になってしまったが。
東映プリキュアチームがいろいろヒントをくれたおかげで、〇ビはララが男の子だということをまったく疑っていない。11/24放送分では、1969年のアポロ11号のアームストロング船長(白人)の逸話があった。彼は"for a man"と言おうとして"for man"と間違えたという話だ。スタプリに即せば、ひかるは「ララ」「地球」「宇宙全体」のどれかを選ぶことになるが、正解は「地球」で、映画は「ララ」を選んだ。ララは「宇宙全体」を選んで闇落ちするはずだ。映画はルイ・アームストロング(黒人)の1967年の"What a Wonderful World"が、テレビシリーズは1939年の映画「オズの魔法使い」の主題歌"Over the Rainbow"が隠れたテーマ曲になっているから、間違いのないところだろう。すべて現実の戦争が激しくなりつつあったころだ。
ララはほかの宇宙人と違い、ひかると握手するまではことばが通じず、そのあとも語尾に「~ルン」とつける。〇ビもやってみて表現力が下がることがわかった。彼女が持っていないのは<ことば>だったが、やはり第一話に

ひかララ:ことばがわかる(ルン)!

とあった。これはもちろん「(ひかるの)気持ちはわからない」という意味だ。いくら仲良しに見えても、ふたりとも孤独を感じていたし、ララはひかるに嫌われたくないので自分が男だとと知られたくない、という事情がうわのせになる。ここだけで成立するトリックではないが、船長の名前と逸話の両方が他の要素と絡む(ついでにいうと、これは月のプリキュアのまどかの回)。そういえばララは故郷の星では成人しているという設定もあったね。
結局、スタプリはララとひかるで閉じた世界が、「あちらをたてればこちらがたたない」だったものが、最後に地球の青に象徴される<愛>を加え、みなが少しずつ傷つけあいながらもボロメオの輪のように安定した、白で象徴される<しあわせ>になるという話だ。青い鳥がしあわせの使い。それがブルーキャットのアイテムなのか第二形態なのかまではわからないが。あと8話残っているし、映画では

宇宙人ハンター:守ろうが、奪おうが、どちらも人のやることだ

とクギをさしてるけどな!念のためにつけくわえておくと、宇宙人のララはどちらもできずに「宇宙全体」を選びます。
「すべてのクレタ人はウソつきだ」とあるクレタ人が言った。彼は正直者かウソつきか?論理的に正しい答えはただひとつ「クレタ人は(自分が認識せず)ウソをつく」しかない。あることがらが正しいのかウソなのか、だれにもわからない。でも、すごくもっともらしいがウソかホントかわからない話があって、たとえば「英単語のrememberにはre-member、再び仲間にするという意味がある」まあウソなんだけど。でも人はこういう偶然に、ウソと知りつつなにかを見出す、偶有性を感じざるをえなくて、それだけが「あちらをたてればこちらがたたず」を安定させる。HUGキュアもけもフレ2も、記憶がテーマになっている物語はすべて、この偶有性を手をかえ品をかえ、ありえた<過去>と来るべき<未来>として、そしてそれが等しいことを描いている。スタプリ映画ならふたりの歌をユーマにレコーディングする場面だ。逆にいえば、本当は人には自由意志がなかったとしても、自由意志があるふりをするというウソをつけば、それすらが決定されたことだとしても、それでも必然が偶然になる。たとえばテッド・チャンはそういう話ばっかり書いているのだが、いちばんストレートなのは"WHAT'S EXPECTED OF US"「われわれに期待されたもの」だ。大森望の邦題「予期された未来」が半分以下しかあらわしていないのがよくわかる。どうせ中身も半分以下だ。著者に敬意を払ってそのまま訳せばいいのだ。〇ビもこうやって書くまでは、プリキュアが現実のベトナム戦争や第二次世界大戦まで視野に入れていたことはわからなかった。東映プリキュアチームがどれだけ自覚的だったかは知らないが、こういうのを偶有性というのだ。

スタプリはラカンの精神分析の理論によくマッチしていて、これはベトナム戦争が終わったころに提唱され、いまでは治療よりむしろ思想の世界で支配的な考えだけど、ララは想像界、ひかるは象徴界、地球が現実界にすっきり対応している。

ラカンによれば、現実とはけっして言語で語り得ないものであるが、同時に人間は現実を言語によって語るしかない、という一見逆説的なテーゼが成り立つ。
(中略)
「言語との出会い」は、現実をラカンのいう「不可能なもの」(仏: l'impossible)に変える。われわれは一生、現実に触れるということに対する抵抗とあこがれの間で揺れ惑う。しかし、人が事後的に現実を垣間見「てしまった」り、現実に触れ「てしまった」りすることがある。たとえば、それは狂気である。ラカンは、精神病を条件づける要因として、このことを見出した。また、ラカンは、人はすべて世俗的な価値体系を脱すると思われる「死ぬ瞬間」にも現実が見えるのではないか、とも言っている。

ララは宇宙人だった。人ではなかった。ことばが通じなかった。象徴界が弱かった。

「つむぎちゃん、ごめん」
「つむぎちゃんを元気づけられること、カッコよく言えたらいいんだけど、どう言えばいいのかわかんないや」
「プリキュアなのにね」
「つむぎちゃんの気持ちもわからないのに、助ける方法もわからないのに、助けるなんて無責任なこと言って、傷つけて」
「ほんとごめん」
「でもわたし、やっぱりつむぎちゃんを助けたい!」
「友だちだから!」
「なに言ってるんだって思われるかもしれないけど、でも、あきらめたくないんだよ!」
「どうにかして、考えて、探して」
「助ける方法を見つけたいんだよ!」
(ラブリー、つむぎの手に自分の手を重ねる)

〇ビが翻訳すると

つむぎちゃん、あたしはほんとは自分はそんなに悪くないと思ってる
こうカッコ悪く頭さげれば許してもらえるのかな
ほんとはプリキュアもやめたいし
つむぎちゃんの気持ちなんて知りっこないし、それはあたしの責任じゃない
もうこれでいいでしょ
ほんとはあたしのことを嫌いなあんたなんてどうなってもいいの
友だちでもないし
医者がサジを投げたことを中学生が探すなんて、口からでまかせに決まってるでしょ
もうなにもしたくない
あんたなんてずっとここにいればいいのよ!
(ラブリー、つむぎの手に自分の手を重ねる)

〇ビに言わせると、もしラブリーが神経症者なら、言語と出会ったはずの瞬間だ。だがそうならなかったのは、彼女が精神病者だからで…キュアエールはこうなんですけどねえ。

ミデン:やめろ!わたしの中で暴れるな!お前と話すことなどない!出ていけーーー!!(出ていくな!ぼくの話を聞いてくれ!)
エール」いや!わたしは話したいの!ちゃんと話してくれるまで出ていかないから!!(だまってあたしを中に入れろ!でなきゃ出ていく!)
ミデン:見るなーーーーーっ!!!」(おねがい!!)
エール:ごめん!でも!(うるさい!だまれ!)

エール:雨…
エール:冷たくて、悲しい雨
エール:なんだか、あなたの涙みたい(きみの涙は、冷たくて悲しいものでなければいいのに)
ミデン:ずっとこうなんだ…(こんなのはいやだったんだ)
ミデン:ボクは、これしか知らない(ぼくはもっと知りたい)
エール:ミデンは偉いね(ミデンはバカだよ)
エール:ずっとこんなじゃ、冷たくて、凍えて動けなくなってもしかたないのに
エール:自分で何かを変えようとした(それでなにか変わった?)
エール:でしょ

エール:おいしもの食べたり、買い物行ったり、はぐたんのお世話したり、ピクニック行ったり
エール:泣いたり、笑ったり、怒ったり、驚いたり
エール:キラッキラのまぶしい思い出、今からたっくさん作ろ(あたしはきみのことをなにも知らない)

ミデン:ボクは、もう、憎しみのかたまりなのに(ぼくはまだ、きみのことが好きだから)

エール:フレ、フレ、ミデン(ごめんね、ミデン)

プリキュア:プリキュア!レリーズシャイニングメモリー!(プリキュア!リメンバーペインフルメモリー!)
(涙ぐむエール)

はな:キミの未来は、明るいぞー!(きみの未来は、明るいぞー!)

HUGキュア映画が失恋と鎮魂の物語であり、エールの涙が苦しみの涙だとよくわかる。ついでに、けもフレ1は()内が皆無で、それはそれで画期的ルン!

観鈴ちんのように「友だちがいなくて、さびしい」のなら、視聴者は容易に共感的に理解でき、涙もチョチョギレだが、「友だちがいなくて、さびしくない」だと理解は難しい。トリックを使わなければ一貫した描写も不可能に近いんじゃないかな、と〇ビは思う。これもたぶん東映アニメーションの挑戦なのだろうが、「男の子を男の子に見せない」ララと「友だちがいなくて、さびしくない、をそのまま見せる(が、だれの目にも入らない)」ひかるはスタプリでは表裏一体になっていて、そこにラカンを援用し、弁証法的に<世界><愛><しあわせ><未来>といったものを描き出している。
題材はおなじでも、よそ(アニメに限らず)は文化包丁しか持ってないところに、東映アニメーションはカッターナイフも手術用メスも牛刀も持っている。ハピネスチャージでよほど懲りたんだろうな。この調子でいけばいつかは<ラブリーの生>を知ることができるのだろうか。もしそれを知るときには、<ラブリーの無>をも知ってしまうことになるが。オヨ~、ゴムの話だルン♡

ここまで一般論と、設定と、第一話と映画とたまたま見た11/24回から拾った描写だけの理屈で、感性の話はなしだった。まどマギや「この世界の片隅に」のまんがもいいかげん理屈っぽいけど、プリキュアは段違いだ。監督の資質ではなく、チームで文学に取り組むと必然的にこうなるのでしょう。東映アニメーションはカリスマのいない大会社だからできるのかも。でもほぼ同水準のアニメはシャフトとかあちこちが作っていて、いまのところ日本のアニメだけができるのだけど、それがいかに文学的な化け物か、それだけはみんなに知っていてほしいところ。

物語の論理はリベラリズムとはあいいれない。言っていることとやっていることが正反対なのだから。すぐれた芸術作品は猛毒でもあって、最初は本当にトイレで吐く(プリキュアで吐いたやつはほかにいるかどうかは知らんが)。〇ビはリベラルが大嫌いで、毎日新聞を読んで二分間憎悪するほうがおなぬいより多いルン。リベラルのみなさんもララが男の子だと見抜けないとネトウヨに負ける(ルン|ニャン|フワ|でプルンス)!

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
typodupeerror

アレゲはアレゲを呼ぶ -- ある傍観者

読み込み中...