ChaldeaGeckoの日記: HUGキュア×スタプリ映画の大予言、「この世界の片隅に」、愛
HUGキュア映画では鎮魂の物語を、スタプリ映画では祖国防衛の物語をやったので、つぎのHUGキュア×スタプリ映画では戦争の加害者責任の物語をするはずだルン。加害者の責任を最終的にはプリキュアが引き受けるのかなルン?見てないがスタプリ本編にいじめの回があったらしいルン。テレビの一話で扱えるような話ではないから、あれで終わりってことはないだろルン。
スタプリ最終回の大予言と同じく、これもこれしかありえないのだが、これは加藤典洋や〇ビのような人にとってはつらい体験になるはずだルン。しかしルン!つらい体験を共有することこそが絆を深めるのだルン。オタクみたいにシニカルなことを言うばかりだと人生大損だルン。
戦争の加害者責任は、まんがの「この世界の片隅に」にしっかり描かれていて、これは、
・朝鮮人を暴力で従えとった
・でも正義があったから許されていた
・日本が負けて正義がなくなった
・だから因果応報で、自分たちが暴力に従わなければならない
・つまり、晴美が殺されたことも当然のことだと受け入れなければならない
・そんなことは知らないまま死にたかった
とう話だルン。すずはこのあと、まんがで唯一、涙をこぼすコマがあって、まんがだから声はわからないのだけど、彼女のかわりに右手が償還してくれるルン。だから右手は晴美の霊で、戦災孤児と入れ替わりにでてこなくなるルン。右手は晴美の霊だとはっきり言う人は見たことがないルン。ネトウヨの〇ビの道具立ての威力がよくわかるルン。
アニメはここはお米がどうたらという日常の論理になっているルン。リベラルは物語を日常の論理だけでとらえるから、文学とは無縁の存在だルン。こうの史代はいかにアカに見えても、本質はウヨというか保守だルン。片淵監督はリベラルな上にトリックを知らないから、アニメは見た目はすごいけどどうしようもないゴミになったルン。
防衛戦争と侵略戦争の違いは、愛を守るのか奪うのかの違いだルン。
宇宙人ハンター:守ろうが、奪おうが、関係ねえ。どちらも人のやることだ
と言っているとおり、愛の符号が違うだけで、やっていることは同じだルン。だから奪ったものは返すことはできるけど、ウソをついて交換することはできないルン。奪ったものは謝罪と弁償をして、相手が「奪われたものを取り返した」と思えば、それで一件落着だルン。奪ったものは返せばいいが、殺したものは取り返しがつかないから贖う、そういうことだルン。前者は日常の論理で、後者は物語の論理だといえるルン。まあ、返すのはそう簡単ではないのだがルン。
HUGスタもたぶん、だれかを殺し、なにかを奪い、それが最終的にプリキュアの責任に帰されるルン。物語では責任を取るということは、価値を交換して、殺された恨みを自分のところに持ってきて、涙で償却することと、奪ったものを返すことだルン。どちらも意図的なものだとは限らなくてもだルン。こうしてみると、謝罪というのは相手を愛することだとよくわかるルン。HUGスタは間違いなくここをついてくるルン。HUGキュアはそれの特殊版だルン。個人と戦争の違いがHUGスタのはずだルン。戦争はたんなる集団での加害とも違うルン。新作はその違いを描くはずルン。企画はHUGキュアのより前から始まっているはずだから、準備は十分だと思うルン。
愛は交換可能なモノではなくて、人は愛されたら自尊心が高まるのだルン。愛は無限に沸いてきうるとしても、実際はそうなっていないので、なにか条件があるはずルン。そのへんも考えてみるルン。
スタプリ:ひかるやチームメイトがララを愛する。ひかるはかわりになにか引き受けたりはしない。ララは自尊心が回復する
HUGキュア:はなが修理したカメラのミデンを愛する
まどマギ:仁美がさやかを愛したが、さやかは誤解した
けもフレ2:キュルルがカラカルを愛する
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