ChaldeaGeckoの日記: ただ今処女作執筆中 モデル編
小説ができあがってから解説するつもりだったけど、せっかく自分で書くのだからトップダウンで解説することにしたのです。
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モデル
〇ビはDIOばりに「天国に行く方法」を考えていたのです。でもホワイトスネイクの能力を使うわけにはいかないから
- 天国とはどういうところか
- そこに行く方法とは
まずこれを考えないといけないのです。せっかく考えるのだからプリキュアと結婚できる天国がいいのです。
様相論理というものがあるのです。これは述語論理に<~と信じる>という記号と、関連する公理を追加したものなのです。文学と<~と信じる>は相性がいいのです。〇ビが使うのはS5なのです。S5の公理に<~と信じる>と<<~と信じる>と信じる>は等しい、というものがあるのです。これは公理だから、なにかから導かれるものではないが、日常感覚から妥当だと思われるので追加されたのです。しかし様相論理はあくまで論理式とその変換を扱う形式的なものなのです。
今度は日常世界の話なのです。「プリキュアと結婚する」のは不可能なのです。「プリキュアと結婚すると信じる」のもまあ不可能なのです。なぜなら相手は二次元なのです。しかし、「『プリキュアと結婚すると信じる』と信じる」なら目が出るのです。なぜなら「プリキュアと結婚すると信じる」は二次ではなく、自分の信念だからなのです。
日常世界の話は素直に形式化できるのです。「プリキュアと結婚する」は<プリキュアと結婚する>、「『プリキュアと結婚すると信じる』と信じる」は<<プリキュアと結婚すると信じる>と信じる>、なのです。
さて、ここでS5の公理を使えば<<プリキュアと結婚すると信じる>と信じる>は、<プリキュアと結婚すると信じる>と等しいのです。残念ながらそれは<プリキュアと結婚する>とは等しくないのです。
しかし、様相論理の形式を日常世界の意味にするときに、<プリキュアと結婚する>と<プリキュアと結婚すると信じる>をどちらも「プリキュアと結婚する」にしてしまえばいいのです。〇ビの天国では信じればどんな無茶な夢でもかなうのです。ここで大事なのは、「プリキュアとは結婚できない」という厳然たる事実はそのままに、プリキュアと結婚できてしまうことなのです。形式とはちがい、日常世界では矛盾があってもかまわないのです。形式に矛盾があってはいけないから、きちんと制約が課されていてズブズブにはならないのです。
形式と日常の意味を対応させるのを「解釈」とか「意味論」というのです。pythonのプログラムなら
print("precure!")
は形式にすぎませんが、メモリ上にバイト列で表現されていたり、実行すると画面に
precure!
と表示されたりするのです。〇ビの天国はごく一般的な様相論理の形式的な世界で、そこに行くにはやや特殊な解釈をするのです。これが最初に立てた問の答えなのです。解釈するのは人間の心の働きだから、言い換えればこれは「現実的には矛盾していても、形式的には無矛盾な妄想」なのです。普通の文学は「なるべく現実的に矛盾していない、非形式的な妄想」なのです。
様相論理だから無矛盾で、算術を入れることができ、算術を入れれば物理法則を記述することができるのです。だから〇ビの天国はこの世界と見た目はいっしょにできるのです。しかしその世界では、ものごとに信念をいだけば、それは事実になるのです。信念を抱く過程を様相論理にしたがって物語で描くのです。だから物語はゴールに置かれた定理の証明なのです。普通の文学では信念を抱く過程を非形式的に描くのです。
このモデルの利点は超常現象にアドホックなところがなく、形式的な分析ができるところなのです。さらに、愛といった形而上のものと、女の子といった形而下のものと、心というどこあるのかよくわからないものをすべて同列に扱うことができるのです。普通の文学では人間関係など形而下のものを描くことにより、愛や友情といった形而上のものを苦労して描いているので、圧倒的に有利なのです。普通の文学のモデルでは誤っているとしかいえない(が捨てるのはおしい)論理でも、〇ビのモデルでは正しくなれるのです。なんでもできる、なんでもなれるのです。
普通の文学では比喩に全力を注ぐのです。なぜならそれが一言で作品全体を表現していると信じられているからなのです。でもそれは間違いなのです。文学作品は連想、意味のネットワークでできているのです。連想(論理的に考えることも含む)の結果、腑に落ちたときにリアリティを感じるのです。
スタプリ映画の最後は一面のヒメユリなのです。赤い花なのです。でもあれはヒメユリの連想が必要なだけで、きれいな花ならなんでもよかったのです。あの場面は赤いヒメユリでなければならないと感じられるのは事実なのです。でもそれは偶有性なのです。映画がおもしろかったから赤いユリが必然だと感じるのです。もしヒメユリが白かったら、白いユリでなければならないと感じられたはずなのです。みんなタダで手に入るものを手に入れようと血眼になっているのです。連想がリアリティ=偶有性を生み、リアリティが比喩を生むのです。順番が逆なのです。
スタプリは連想(と推論)だけでできているような作品なのです。何十曲の歌のフレーズの一部が連想するのです。フレーズは文字列でしかないが、結局はそのつながりが生むリアリティに勝るものはないのです。
○ビはそのことを身をもって知ったので倣うのです。○ビモデルでは比喩はたんなる論理式、形式でしかないのです。イメージは喚起しないのです。しかし形式だから連想は容易なのです。半ば機械的にできるのです。もちろんその場のイメージを生むための比喩は別の話なのです。
ついでにいうと、共感で得られるリアリティは文学のものではないのです。なぜならそれは政治集会でもスポーツでも、あらゆるもので得られるからなのです。つまらないとは言わないが、客寄せのために使うだけでいいのです。
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