パスワードを忘れた? アカウント作成
14200340 journal
日記

ChaldeaGeckoの日記: 映画『聲の形』

日記 by ChaldeaGecko

心理学用語にラポールというものがあるのです。rapportと綴るのです。フランス語なのです。ファンロードの出版元はこれの英語読みなのです。一度書いたかもしれないのです。
ラポールとは

その後、セラピストとクライエントの間に、相互を信頼し合い、安心して自由に振る舞ったり感情の交流を行える関係が成立している状態を表す語として用いられるようになった。カウンセリングや心理療法をどのような立場から行う場合であっても、ラポールは共通した基本的な前提条件として重視されている。

というしあわせな状態なのです。これを築くために、ボディランゲージやアイコンタクトなどの動作や、相手の言葉の繰り返しや秘密の共有など(議論的でない)ことばなどで、親密さを作り出したり演出したりするのです。
多くの映画では中盤終わり以降から最終局面にかけてこのラポールが築かれるのです。それより前に作り出す試みはたいてい失敗するのです。そもそもラポールが存在しない映画もあるのです。
さて、ラポールがある前は人物はウソや秘密や不信感などを抱えたりして不安定なのです。だから映画は、ハリウッドはともかく日本のアニメはラポールの直前に心理描写の重点を置くのです。ここではアニメ映画『聲の形』を見ていくのです。

この映画の超絶美少女の植野さんは、美少女の西宮さんを小学校のころいじめていたことがあるのです。はじめは友好的だったが、植野さんはアスペルガー障害、西宮さんは聴覚障害で、ものすごく相性が悪く、実際、植野さんは西宮さんにたいへん不快な目にあわされていたのです。西宮さんは悪くもないのにすぐ謝るから植野さんには理解できないし、アスペルガー特有の怒りを感じていたのです。
西宮さんを率先していじめていた将也は主人公なのですが、あるきっかけでいじめの矛先が彼に向いたのです。植野さんは将也が好きだったのですが、見て見ぬふりをしてしまったのです。彼らが高校生の時に再会して物語が動き出すのです。植野さんは将也に恋したままで、二人に罪悪感を覚えていましたが、西宮さんに対する(アスペルガーによる理不尽な)怒りも抱えたままなのです。西宮さんは将也と仲良くなっていたのです。そのためその怒りを表に出してしまったのです。

超絶美少女の植野さんはアスペルガーのため、他人の言うことばが理解できないことあり、しかしそれを「そういうものだ」と考えているのです。ラポールがなくてもさほど苦痛には感じないのです。美少女の西宮さんは正反対で、ラポールがなくなると自殺(未遂)を起こすほどの苦痛を感じるのです。でもすぐノートを使ってしまい、自分からラポールを築こうとはしてこなかったのです(これは植野さんが指摘するのです)。
植野さんは西宮さんと観覧車で二人きりで話すのです。三角関係の将也のことはヌキで話そうとしたのです。しかしラポールのないところでいきなり話をしてもうまくいくはずがないのです。植野さんと西宮さんにラポールができるのは、西宮さんが将也の見舞い帰りに雨に濡れている(雨が降るずっと前から病室にいた)植野さんに傘をさしかけた場面なのです。心理描写はこの直前に重点的に描かれているから、見てみるのです。

それは植野さんと西宮かあちゃんのケンカなのです。それを将也かあちゃんが止めに入るのですが、あわてて止めるのではなく、歩いてゆっくり近づいてきたのです。おたがいに何発か殴らせるつもりだったのです。だからこのケンカは植野さんと西宮さん(の代理のかあちゃん)のケンカだとわかるのです。
将也かあちゃんはケンカをとめて、植野さんにどつかれていた西宮さんの前に立つのです。将也は自分の自殺未遂を止めるため、かわりにマンションから落ちて重傷を負っていたのです。将也かあちゃんは顔には出しませんが
> 硝子…さん…
と呼び捨てにしそうになり、内心激おこだとわかるのです。西宮さんは土下座し、かあちゃんは黙って立ったままで受け入れるのです。かあちゃんは西宮かあちゃんと結絃の土下座には自分も腰を落とし、受け入れなかったのです。
西宮かあちゃんは植野さんの言い分が正しいことはわかっていたが、スジを曲げてでも娘を守ったのです。かあちゃんは一言も口をきかずに植野さんを張り倒すのです。理由は二つあり、植野さんの言い分が正しいと知っているからなにも言えないのと、西宮さんの代理でケンカしているのだから口をきけないことなのです。
将也かあちゃんは西宮さんとは初対面だが、将也に話はさんざん聞かされていて、自分の娘のように感じていたのです。これが言いよどみのもう一つの理由なのです。だから土下座なんてさせたくないのだが、親としてスジを通させなければならないのです。西宮かあちゃんと将也かあちゃんは対照的だが、どちらも立派な親なのです。西宮かあちゃんは口をきかず、将也かあちゃんが西宮さんの名前を呼ぶところに注目するのです。そうすると西宮かあちゃんは植野さんを西宮さんに見立てて張り倒しているのです(西宮かあちゃんが口をきくと見立てが成立しないのです)。これも子を叱る親の愛なのです。植野さんはとんだ災難なのですが、植野さんも親に殴られてはじめて反省できたのです。たぶん植野さんの本当の親は殴らなかったのです。西宮さんは将也かあちゃんだけでなく、自分のかあちゃんにも謝っているのです。京アニも東映アニメーションも暴力肯定なのです。

この場面では、将也のかあちゃんを将也の代理と見ると、三角関係の清算になっているのです。植野さんが将也を諦めるのです。上に書いたように、植野さんは将也に罪悪感を抱いていたが、謝ることができずにきたのです。西宮さんが将也(の代理のかあちゃん)に謝るのを見て、自分には将也とつき合う資格はないと考えたのです。高校生の植野さんが将也と再会した場面に

(西宮と将也が仲良くしているのを見て)
植野:もしかして罪悪感的な?

というセリフがあり、きちんと「アスペルガーの植野さんは罪悪感は理解できる」というヒントになっているのです。

さて、西宮さんが見舞い帰りの植野さんに傘を差し掛けてラポールを築こうとする場面の直前に

佐原:わたし、自信、ないよ
佐原:もし、石田くんが目覚めても
佐原:わたし、あわせる顔がない
佐原:わたしは、変われなかった

佐原:来てくれてありがとう、硝ちゃん

佐原さんと西宮さんの会話がありますが、この佐原さんは植野さんの気持ちを代弁していることは明らかなのです。したがって、植野さんが西宮さんを無視するのも、「あわせる顔がない」からだとわかるのです。映画では植野さんが西宮さんの傘に入る場面はありませんが、描くだけ蛇足というものなのです。
見立てのあいだには西宮さんと西宮かあちゃんの親子といった強い結びつきがあるのです。そうすると植野さんと西宮さん、植野さんと佐原さん、西宮かあちゃんと将也かあちゃんにも強い結びつきがあることがわかるのです。〇ビが好き勝手に見立てているのではないのです。

西宮さんはラポールがないと激しい苦痛を感じるから、雨で濡れている植野さんに傘をさしかけたのは、たんなる思いやりではなく、自分自身が生きるためだともわかるのです。植野さんにはそこまでする理由はないから、西宮さんからアプローチする必然性があるのです。

つぎは植野さんから親愛の情を示すのです。植野さんは西宮さんの肩にぎこちなく手をやるというボディータッチを見せ、また悪くないのに謝った西宮さんにも「ま、それがあんたか」と理解をしめしたのです。そして植野さんがまたぎこちなく手話で「バカ」とやったら、普段はぎこちない西宮さんが大喜びでその手を両手で取り、「バカ」の正しい書き順を教えたのです。ここだけでふたりの性格も感情もよくわかるのです。植野さんは西宮さんに手を握られてうれしいし気恥ずかしいけど、よりによって「バカ」を訂正されて恥ずかしい思いもしたのです。植野さんが手話を間違えたことはそれなりに注意して観ていないとわからないことですが、わかれば大きなリアリティを感じることができるのです。植野さんは逃げてしまい、「逃げた」「照れてるんだよ」というフォローが入るのです。どちらも正しいが、後者で前者を否定したようにも見え、「間違えて恥ずかしいから逃げた」ことに気づきづらくしているのです。もちろん気づいた人は超絶美少女の植野さんがますますリアルでかわいく愛おしく思えるのです。

小道具にはノート、補聴器、傘、手話があるのです。ことばに属するものがノートと補聴器、態度に属するものが傘と手話で、傘は冷たい雨を避けてふたりでいっしょに入れるもの、補聴器は(奪われるという動作により)用途に反してコミニュケーションを妨げるものとして描かれているのです。『聲の形』はノートや補聴器といったことばに属するものから、傘や手話といった動作や態度に軸足を移すと障害持ちはしあわせになれる、という話なのです。植野さんの手を西宮さんが両手でつかむのは、握手の一形態であり、信頼や好意といったもののことば的な表象であり、かつ素朴なうれしさやあたたかさといった身体的なものをを観客に感じさせるものなのです。それが手話とごく自然に融合されているため、ことば的なものとしぐさ的なものが結びつけられ、しかもそこに植野さんの二種類の「恥ずかしい」があるため、本来目には見えないおたがいの気持ちが立体機動でわかる、非常にすぐれた場面なのです。

この映画の植野さんと西宮さんは、ふたりの「距離」が重要で、間主観性の問題なのです。だれかだけに感情移入するのではなく、ふたりいっぺんにロジカルに考える必要があるのです。主人公=観客の自己肯定がすべてであり、ひたすら主人公に感情移入させ、ストーリーは共感により観客の願望をなぞることに徹するべきだと言い切るハリウッド脚本とは真っ向から対立するのです。脚本術は映画の体裁を整えるには有用だけど、それがすべてになっているのです。歯止めをかけるはずの評論家までバカになってしまったのです。たんに評論能力を失ったというだけでなく、一二回見るだけで評論できるという誤った思い込みを持つにいたったのです。そうして映画評論は自分のイデオロギーとトリビアだけを語る場になったのです。町山智浩(でもマシなほう)のことだからな!

本日のお楽しみコーナー

  • 超絶美少女植野さんと美熟女西宮かあちゃんのキャットファイト
  • 顔に傷をつけた美女三人(植野さんにどつかれた西宮さんと、キャットファイトの二人)
  • 障害者の美少女の西宮さんが、美熟女の将也かあちゃんの靴を舐める勢いで這いつくばって全力土下座。かあちゃんは直立不動のままのドS対応
  • 父親不在の母子密着

いいですかみなさん、これは決して偶然ではないのです。〇ビの妄想でもないのです。世の中そんなに都合良く出来てないのです。『巨蟲列島』や『ニュー・シネマ・パラダイス完全版』のように、エロい文脈を自分で作って当てはめた人だけが楽しめるように作られているのです。京アニはアホなのです。西宮さんが土下座しているスクショと、かあちゃんが直立しているスクショを自分で組み合わせるともっと楽しめるのです。しかし障害者を這いつくばらせてエロ表現するとは京アニの鬼畜ぶりは一足違うのです!

いやー、映画って本当にいいものですね。サイナラ、サイナラ、サイナラ。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
typodupeerror

ソースを見ろ -- ある4桁UID

読み込み中...