ChaldeaGeckoの日記: 『魔法少女まどか☆マギカ』におけるラポール
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『魔法少女まどか☆マギカ』でラポールが構築されたのは、ただひとつだけ
- 劇場版のさやかの魔女戦の最後で、杏子とほむらのあいだ
だけなのです。テレビシリーズではふたりのあいだにシャッターがあるからラポールはないのです。
それ以外の場面では、廃教会で杏子がさやかとラポールを築こうとして失敗し、劇場版では土手でさやかがウソをついてまどかとのラポールが消え、テレビシリーズではバス停で消えたのです。
さて、ラポールが構築される直前に重要な描写があるのです。さやかの魔女の結界でほむらが杏子に手を差し伸べて杏子がとったから、ふたりには信頼関係ができたのです。でもどちらかがウソついているはずなのです。
杏子とまどかがさやかの魔女の結界に向かう途中で
まどか:ほぬらちゃんも、手伝ってくれないかな……
杏子:あいつはそういうタマじゃないよ
という会話があるのです。杏子はほむらに助けられたのだから、そういうタマだと知っているのです。このセリフはウソなのです。苦労しなくても一発で見つかったのです。
マミ公は一人で盛り上がって死んだだけだから、ラポールを築こうとしたのは杏子がさやかと、杏子がほむらとだけなのです。杏子は凶暴な見かけに反して友好を好む性格だということがすぐわかるのです(さやかを半殺しにしたのは、「他人のために魔法を使うと不幸になる」ことを知っていたから)。また、さやか相手は失敗してほむらが成功した(劇場版)のだから、杏子の想い人がほむらであることもすぐわかるのです。物語外だが、杏子がさやかの魔女のそばにいることで、さやかは劇場版では救われ、テレビシリーズでは救われないだろうと推測できるのです。なぜならテレビシリーズではただ一つのラポールもなかったのだから、そういう世界なのだろうと思われるのです。杏子とほむらの悲恋には、世界の意味を根本から変える働きがあったのです。
ほむらとまどかのあいだにラポールはなかったのに、まどかがいきなり神様になったテレビシリーズの世界は、いかにしあわせに見えてもいびつなのです。劇場版の地獄エンドこそが論理的に正しいのです。
地獄エンドの劇場版のほうに救いがあり、一見しあわせなテレビシリーズには救いがないというのは皮肉な話なのです。テレビシリーズは仁美など見るべきところはあるが、基本的には「魔法で願いをかなえてしっぺ返しを食らう」という、比較的単純な話なのです。
ほむらはまどかへの執着だけで生きてきたような女だったが、杏子とのあいだにラポールを築くことができ(劇場版)、まどかともそうしようと思ったが、それが執着を失わせてしまい、魔女化してしまった、と考えるとスッキリするのです。杏子はほむらを失いさやかを助けた、ほむらは杏子を失いまどかを助けた、つまり象徴的なレベルでは、杏子はほむらとさやかを、ほむらは杏子とまどかを交換したのです。だからラポールのある関係は未来志向で、執着は現在志向、無時間的であり、それはほむらのビジュアルに表象されているのです(まどかのリボンと盾)。そうすると魔女は過去志向ということになり、さやかの魔女が記憶を表示しつづけていることとつじつまも合うのです。杏子の髪留めは過去ではなく執着の象徴だったのです。
ここで使ったのは、相手にアクションを起こす前には信頼関係を築き、かつ、相手を思ってのウソもつかない必要があるという、たったそれだけのことなのです。逆にいえば、まどマギにロクな解釈が出てこなかったのは、みんながいかにこの単純なことを理解していなかったかということになるのです。「相手を思ってウソをつく」ことが当たり前の美徳になりすぎているのです。思えばさやかとまどかのラポールが消えたのも(劇場版)、さやかがまどかを案じて「魔女は怖くない」とウソをついたのが原因だったのです。それが反転してバス停になったわけなのです。
現在過去未来でいえば、ウソは過去にしかなりえないが、これはなんとなく正しそうだけど自明ではないのです。
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