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日記

ChaldeaGeckoの日記: 映画『聲の形』は最強のユリ映画なのです

日記 by ChaldeaGecko

映画『聲の形』は最強のユリ映画なのですを書いたのです。

植野さんと西宮さんの関係を大量のスクショで解き明かしたのです。ふたりはおたがいがいなくては生きていくことができず、友だちであり恋人であり母娘であることを立証したのです。西宮さんはああ見えてドS、植野さんはドMなのです。
ケンカの場面のエロい文脈がユリの文脈につけ加えられることにより、ふたりの関係にほのかに淫らなものが植え付けられるのです。究極のユリ映画なのです。京アニの計算づくしなのです。〇ビは原作を読んでいないのですが、魔改造されていると思うのです(性的な意味で)。

西宮さんが将也かあちゃんに土下座する場面がキリスト教の罪の女を再現していることを明らかにしたのです。また、おなじ『ルカによる福音書』の善きサマリア人のたとえも関係するのです。

ここに書いたこともスクショで精密にしたのです。

プリキュアやまどマギに一歩も引けをとらない水準の作品なのです。ことば遊びの大好きなプリキュアと違い、『聲の形』はオーソドックスな心理描写寄りなのです。植野さんがアスペルガーだということを描くのにがっつりことば遊びは使っているのですが。
〇ビが痛感するのは、小説とまんがとアニメはごく近いが、実写映画はかなり離れており、演劇になると文学とは本質的に異なることなのです。実写映画は良くも悪くも実写だからノイズが非常に大きく、これはかけがえのないリアリティを生むが、表現上の大きな制約にもなっているのです。アニメなら映っているものはすべて意図があってのものだが、実写では意図して映したのか偶然映っているのか判別不可能だから、実写映画の表現はアニメより精密さに欠けてしまうのです。実写映画の映像の解釈は、まずこの意図か偶然かの切り分けから始めざるをえず(それかいきなり深読みからはじめるか)、アニメの解釈手法とはそうとう違ったのものになるのです。
たとえば『聲の形』なら、将也の見舞いに来ていた植野さんが来ているシャツの色と柄には三種類あって、これが彼女の心理状態をダイレクトにたとえていることは見ればわかることだし、「入院患者との面会は午後一時から」という看板や、道路の標識の「出口左折」も、それがヒントになっていることをは慣れるとすぐアタリをつけられるのです。そうすると、作品には象徴的なものがあふれていることがわかるのです。『聲の形』なら補聴器はコミュニケーション不在の象徴だったものが、りんご飴が補聴器を象徴しかえすことによって反転し、濃密な女同士のコミュニケーション宇宙・ユリバースの象徴になるのです。
これが実写では都合のいシャツが手に入るとは限らないし(手に入ったとしても、派手な色使いで不自然さ全開になるのです)、看板や標識が意図せず映り込むのは避けられないので、こういったものからなにかを読み取ることはつねに見当違いの深読みの危険をはらんでいるのです。いきおい象徴も貧弱なものになるのです。
こういった事情があるため、すぐれたアニメは実写にくらべて非常に手がかり豊富でロジカルな作りになっており、見る側も普通に感覚・感情的に見るだけでロジカルに見ないとどういう映画なのかわからないのですが、世のアニメ評論は実写評論(のしかもひどいやつ)の延長で、思いつきの深読みでなされるのがつねなのです。これはアニメ評論家の頭が悪いという以前に、アニメと実写の本質的な違いが知られていないことに原因があるのですが、それは〇ビが気づけた程度のものでしかないから、アニメ評論家はいかに考え方が凝り固まっているかがわかるというものです。そして頭が凝り固まっているやつほどなんの役にも立たない「深読み」合戦をするというのも実写評論家とおなじなのです。
『映画芸術』誌がアニメから撤退したのは英断なのです。もっともくやしまぎれにアニメをサゲるような書き方をしたのは下品なのです。

アニメ映画『この世界の片隅に』のダメさは、まんがにあった緻密な象徴とロジック、つまりまんがの独自言語を監督が理解できずに全部捨ててしまったところにあるのです。まんがも一見は感動作ですが、そこから骨が抜け、根拠のない深読みが加わり、クラゲみたいな共感だけの感動作になってしまったのです。
『聲の形』も一見は感動作ですが、緻密で強固な独自言語とテーマの上に表現が築かれているため、感動作としても思想面で一貫したきわめてすぐれたものになっているのです。『この世界の片隅に』も表現はすぐれているが、それ一本やりなのです。その場その場の表現はよくても、ことばがないからそれらが一貫せず、自己肯定しか存在できないのです。言ってみればハリウッド的なのです。

小説では象徴を導入するのは容易だが、視覚ではなくそれもことばで表現せざるをえないので、読者が発見するのが難しいのです。なので評論家がバカではなくても、偶然の発見に頼った底の浅い理解になったり、物語論や批評理論を自分勝手にあてはめる、あるいはでたらめな深読みが氾濫する原因になっているのです。
アニメでは象徴を見つけるのは比較的やさしいので、こちらでコツをつかめば小説の理解も深まるのです。

そういえばヤマカンはここのOBですが、彼はトリックのことは知らないようなのです。中での教育はどうなってんですかね。

不満も述べておくのです。自殺企図した西宮さんを入院させないのはリアリズム的にも倫理的にもありえないのです。自殺企図の責を100%本人に負わせるのは現代の倫理に反するのです。まわりの人にも責任があるという意味ではなく、たんに負いきれないのです。京アニもそれはわかっているから宗教のイコノロジーを使ったのだろうが、ダメなものはダメなのです。

とりあえず、この映画でなくていいから、音を消して見てみると見えかたが全然違うことはわかるのです。神経がセリフでなく表情やしぐさに集中するから、なんかやたらエロく感じるのです。実写でやるのは難しいがアニメなら比較的やさしいのです。

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