ChaldeaGeckoの日記: 隠喩とは 2
隠喩とは、ダジャレのスゴイやつのことです。むずかしいことを書いたので、自分には理解できないことが書いてあると憎悪を抱く人は、この先は読まないことをオススメします。
『ブレードランナー』のロイ・バッティの最後のセリフは
All those moments will be lost in time like tears in rain. Time to die.
このin timeには「やがて」「ちょうどいいとき」という、異なる二つの意味があります。この映画を普通に見ると、文脈的に「やがて」だと思う人がほぼ全員です。日本語字幕も前者です。
そういう思い出も やがて消える/時が来れば 涙のように/雨のように…/その時が来た(字幕)
犬っちはヒアリングができないので、スクリプトを見ないと映画が観られないので、観るだけでなく、映画を「読む」ことになります。そうすると上のin timeの後者の意味に気づきやすくなります。
そういうできごとも、いままさに消える。雨の中の涙のように。死ぬときがきた。
バッティがデッカードに涙を見られたくないが、泣いていることを知ってほしいということがわかります。momentにも「瞬間」「重要性」という二つの意味があり、この映画を象徴する単語です。
基本的な隠喩はこのダブルミーニングです。わかりやすいほうにつまらない意味、わかりにくいほうにおもしろい意味を持たせます。気がついた人は自分の発見だから、とてもうれしくなります。
このセリフにはもう一つ意味があります。
All those moments will be lost in time like tears in rain. Time to die.
like tearsがtimeにかかると考えます。そうすると、in timeとin rainが並行関係になります。また、後者のTimeもin timeの省略だと考えられます。その結果、timeとtearsとto dieが「隠喩的に」おなじものとされます。それがin rainと並んでいるのだから、timeとrainは「隠喩的に」親しいものと思えます。
そうすると、tearsとto dieとrainが親しいものになり、未来のロサンゼルスに降りしきる雨に、timeとtearsとto dieが親しくなります。観客は別の場面の雨でも、時間の経過やレプリカントの涙や死を連想するようになります。これが隠喩の力の本領です。
犬っちには三番目>>二番目>一番目でおもしろく感じられます。どういうわけだかわからないが、隠喩のおもしろさは万国の人民共通で、「多様なおもしろさ」は存在しません。注意すべきは、この三つの解釈は「同時に存在する」ということです。ものによっては排他的なこともありますが、ここは違います。
このセリフはバッティ役のルトガー・ハウアーのアドリブだそうですね。大したものです。
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隠喩はどれだけ説明をつくしても、しょせんガイドにすぎず、観客はそれを参考にして自力で理解する必要があります。だから、だれでも理解できるような性質のものではありません。古典芸能のおもしろさを説明してもわかってくれないのと違い、本人のそういう素質、笑いのセンスと、ダジャレ力、連想力だけで決まるのです。これは読書家かどうかはまったく関係ありません。どんな読書家でも、ダジャレが好きでないならダメなのです。
文学の世界には、『ブレードランナー』のように隠喩を駆使したものもあれば、そうでないものもあります。世評や批評で識別することはできませんが、作家性の問題ではあるので、ある作品が隠喩的であれば、おなじ作家の別の作品もたいていそうです(若いころは隠喩的でないことはあります)。
思想の世界では、ニーチェ、ラカン、ロラン・バルト、デリダ、ドゥルーズ、浅田彰が「隠喩命の人」だということがわかりました。いわゆるソーカル本『「知」の欺瞞』は、隠喩が理解できなかった人が、トンチンカンな攻撃をしています。といっても槍玉の全員が隠喩の人かどうかまではわかりませんが。
自分で言いたくはないのですが、犬っちは隠喩の天才です。学者や評論家のほぼ全員は隠喩を理解できていません。というか、そういうものの存在を知らない上、隠喩から遠ざかるような読み方をする訓練を受けています。浅田彰や蓮實重彦は例外的存在です。だから隠喩命の本の邦訳は、ほぼまちがいなくトンチンカンな訳になっています。
もちろん犬っちと同レベルの読者はいるはずなんですが、彼らは表に出てきません。なぜなら隠喩はこっそり楽しむのがいちばんだからなのです。犬っちが記事を書くのはべつに「承認欲求」からではなく、実利を求めてです。たとえば翻訳の質が上がるとか、隠喩力のある人のきっかけになれればとか。
隠喩力は一度身につき、維持向上する努力をすれば、驚くほど短期間で上達します。ただし最初は向上を自覚しにくく、ノロノロした上達に感じられます。一度慣れてしまえば、わりと気づくものです。なぜなら作者は隠喩に気づかせる、微妙に不自然な箇所(プンクトゥム)を仕込んでいるからです。
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上の『ブレードランナー』の引用の直前の部分はこうです。
I watched C-beams glitter in the darkness at Tannhäuser Gate.
日本語字幕はどうでもいいのですが、タンホイザーといえばワーグナーのオペラです。
中世のドイツでは、吟遊詩人としてうたう習慣が騎士たちの中でもあった。騎士の1人であるタンホイザーは、テューリンゲンの領主の親族にあたるエリーザベトと清き愛で結ばれていたが、ふとしたことから官能の愛を望むようになり、愛欲の女神ヴェーヌスが棲んでいるという異界ヴェーヌスベルクに赴き、そこで肉欲の世界に溺れていた。
さて、watchという単語には「見る」以外にもいろいろあり、「待つ」というのもがありました。ぶっちゃけ書いてしまうと「タンホイザーゲート(=アナ〇)にC-beams(=精〇)がきらめくのを待った」です。
文学作品には性的な隠喩、しかも下品なのが非常に多いです。しかしこの隠喩はおもしろ半分ではなく、作品理解に不可避なものです。ロイ・バッティが死に、白いハトが飛んでいくのは、バッティとデッカードの結婚式の隠喩になっているからです。
世界でだれも言っていないことですが、デッカードはネクサス8型レプリカントで、バッティと知り合いだったが、記憶を消されています(かなりはっきりした「隠喩的」証拠があります)。おそらくその前は二人は同性愛関係にあったのでしょう。
そうなんです (スコア:0)
もちろん犬っちと同レベルの読者はいるはずなんですが、彼らは表に出てきません。なぜなら隠喩はこっそり楽しむのがいちばんだからなのです。
そのとおりだと思います。私はあなたほどのレベルは到底ありませんが、作品を読んでいて「気付く」ことはあります。
しかし、私は普段その気づいたことを明示したりしませんし、私と同レベルで気づいている人は他にもいるだろうけど表に出さないだけだと思っています。
なぜなら「気づき」はその人本人のものであって、その人の物語でその人の宝物だから。宝物をむやみに開陳するのは品がない…作者と読者の間での秘密の共有みたいなもの…というと大げさでしょうか
Re: (スコア:0, 参考になる)
なぜなら「気づき」はその人本人のものであって、その人の物語でその人の宝物だから。宝物をむやみに開陳するのは品がない…作者と読者の間での秘密の共有みたいなもの…というと大げさでしょうか
いえ、まったくそのとおりです。ニーチェ以前がわからないのですが、反哲学の隠喩派がいて、 ドゥルーズ [wikipedia.org]の「リゾーム [wikipedia.org]」がまさにそれで、地下に潜って(性的な)隠喩を楽しんでいるさまです。
文芸評論家の加藤弘一は、自身のブログの中の産総研の研究員でメディア・アーティストの江渡浩一郎の著作『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則~