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日記

ChaldeaGeckoの日記: 天才犬っちの、世界一ただしいラカン:対象aとアガルマ

日記 by ChaldeaGecko

おさらいすると、対象aは「自分は相手だけを見ているが、相手はふたりを見ている、犬と飼い主みたいな関係」あるいは「自分は相手にご奉仕しているが、相手はえっち♡を楽しんでいる」における相手のことだワン。ラカンっちの考える理想的な人間関係だワン。もちろんこれは想像的(≓主観的)な関係だから、おたがいを対象aとすることもできるワン。the Other<相手>は分節前の相手のことだが、これが先のような関係になってはじめて対象aになるワン。
ラカンっちの考えでは、動物はとてもしあわせな生き物だが、ことばは人間の動物性を覆い隠してしまう、好ましくないものだワン。みんなここから間違えてるワン。自分が人間的エゴを捨てられる関係の相手が対象aだワン。赤ちゃんがえりといえば通じやすいかもワン。

 こうしてソクラテスは、サテュロスの形をした「神棚」にそっくりだということになる のだが、それだけではない。アルキビアデスは、その「神棚」の中に納められている、話す人としてのソクラテスの秘密を、自分だけが見てしまったと感じている。すなわち、ソクラテスの内部には、金色に輝く、神々しい群像が納められている。それらは、理想的な人間たらんと欲する、志の高い者の探求にふさわしい対象なのである。このプラトンの記述は、メラニー・クラインの記述にぴったりと当てはまる。この対象はまさに理想的な 良い対象」、それでいて同化を拒み理不尽な命令を課してくる「悪い対象」でもある。クラインはこの「始原の対象」が「母」の内部に隠されていると書き、プラトンはそれが、話すソクラテスの内部に納められていると書いたのだった。この輝ける対象は、ギリシャ語で「アガルマ」と呼ばれている。このアガルマが、ラカンの対象の概念化を大いに助けた。大文字の他者の語らいの内部に置かれたこの対象が、アルキビアデスの、ソクラテスへの奇妙な執着を操っている。古代ギリシャにおけるこの執着は、現代の精神分析における転移に他ならず、アガルマすなわち対象が、これらの特異な関係を司る定数なので ある。  (新宮一成. ラカンの精神分析)

アガルマは対象aを発見した(と信じた)ときのキラキラ~トゥインクルの隠喩のリアリティのことで、対象ではないのだが、トゥインクルを知らない人はどうしようもないワン。
ラカンっちがアガルマについた文章が見つからないので孫引きになるが
対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)

①S(Ⱥ)としての象徴的ファルスΦによって生み出された裂け目の想像的表象
②主体から想像的に切り離されるうる部分対象
③シニフィアン化される前の、すなわちS(Ⱥ)以前の Ⱥ
④母なる〈他者〉(m)Otherの得体の知れない欲望
⑤アガルマ、すなわち隠された秘宝、あなたのなかにあってあなた自身以上のもの(ただし厳密にはやや異なる)。

ただしいのは5だけで、あとは間違いかトンチンカン。

では我々はどのように理解すべきなのか、意識的な生活で究極の欲望の対象としてのアガルマの錯覚的「視覚効果」を作りだす隠された部分対象a(あるいは想像的ファルスϕ)を。定義上、鏡面性を超えるものとして、隠された部分対象a(あるいはϕ)は、眼差し以外のなにものでもない。

アガルマの錯覚的「視覚効果」への言及があるが、ラカンっちがどう書いたのか知らないが、もろトゥインクルだワン。

対象aの概念は、たぶんラカンによる精神分析理論への最もオリジナルな貢献である。小文字の "a," "autre,"の最初の文字は、他者との本質的な関係を示すとともに、数学的な意味での、アルジェブラの変数、あるいは「機能」を示すことが意図されている。(……)

たぶん対象aの最も挑発的な側面は、その閾的な特徴である。そしてそれは二つの意味において、である。まず、対象aは奇妙にも主体と他者のあいだに宙吊りになる。どちらにも属しているし、どちらにも属していない。同時に、〈他者〉のなかにある最も他者的なものを示すのだが、しかしそれは主体自身に親密につながれている。(……)

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。

しかし、対象aはまた二番目の意味でも限界的である。それはラカンの基礎的なカテゴリー、想像界、象徴界、現実界の三つのすべてに関与しつつ、そのどれにも限定的には属さない。想像界において、いかにも身体のイメージされた部分(乳房、糞便…)として、最も原初の表象を見いだす対象aではありながら、ラカンによって意図されているのは想像的なものの限界を徴づけもする。

extimateは要するに「おかあさん的」だワン。対象aが欲望の原因だというのは、人は離れてしまったおかあさんにかわる人を探しているということだワン。

見てのとおり、対象aは他のものから導かれるものではなく、the Otherを所与として、1:a=a:(1+a)からのみで定義されるワン。したがってラカンっちの精神分析の根幹をなす考えだワン。もう一つの根幹であるdesire欲望とつなげているのは当然だワン。

  • the Other:分節されていない相手
  • objet petit a:理想的な関係にある、分節されていない相手。ラカンっちが翻訳するなとうるさいので、英語でもそのまま
  • desire:相手のことを知りたいという穏やかであたたかい動物的な気持ちの相手。犬がしっぽを振っている感じ
  • the Other's desire:分節されていない自分
  • the phallus:自分の名前
  • the subject:分節された相手(自分の頭の中にある)
  • the other:分節された自分(相手の頭の中にある)
  • 動物的:the Other, desire, the Other's desire, objet petit a
  • 人間的:the phallus, the subject, the other

objet petit aはobjetなのになぜ分節されていない相手なのか?それは

In the psychoanalytic theory of Jacques Lacan, objet petit a stands for the unattainable object of desire.

だからだワン。desireは動物的なものだから、分節しなくても相手をobjectとできるワン。人間は相手を分節しないとobjectにできないワン。objet petit aはdesireの原因、つまりdesireはどんな文脈で使われていてもつねに、相手がobjet petit aだったらいいなあという気持ちをともなっていることを忘れてはいけないワン。
もしラカンっちを自分で読むときは、このリストと、動物>人間を頭にたたき込んでほしいワン。動物的なものはステキなもので、人間的なものはめんどくさいものワン。ニーチェとおなじで、人間>動物という発想そのものを批判しているワン。
動物は物理的な現実を直接感じていたが(享楽)、人間はことばのはたらきが割り込んでしまい、間接的にしか感じられなくなってしまったので、隠喩が生み出すリアリティで仮想的な現実を作りだし、ビビッドな享楽=生を回復させようというのがラカンっちの精神分析だワン。生の哲学そのまんまだワン。対象aはその仮想現実にだけ存在し、本当の現実には存在しないワン。「隠喩が生み出すリアリティ」を知らない人が群盲象を撫でる状態なのが現実だワン。おフランス現代思想の人たちは(全員とはいわないが)わかっているが、自分たちも隠喩合戦しているから黙っているワン。

ラカンっちはコンピュータ科学っぽいところも多くて、動物/人間、相手/自分、分節前/後と型っぽいし、単純明快かつ一貫したことを言っているのだが、肝心なことばの定義をしなかったので、世の中大混乱だワン。

分節することは英語ではdivideで、シニフィアンSとシニフィエsをもちいてS/sと書き、ratioと言ったりするが(ただしラカンっち用語)、自分の名前がなぜファルスかというと、女の子を割るからだワン。このファルスという用語にみんな振り回されているが、ただのエロいダジャレだワン。人間はみんな名前を持っているから、「(ファルス=名前を持たない)女は存在しない」だワン。最初のthe Otherはおかあさんで、mOtherとか書くらしいが、対象aは名前を持たないから、女だといえるワン。対象aは仮想現実にのみ存在し、本当の現実には存在しないから、「女は存在しない」だワン。
小文字の他者

小文字の他者(フランス語: petit autre)とは、フロイトの大義派(通称:ラカン派)(école de la Cause freudienne / Lacanien)の精神分析理論で用いられる概念の一つである。対象a(objet a)とも言われる。

人間が一生を通して追求するもので、想像界や象徴界や現実界の中間にあり、欲動が求める対象。他の精神分析学派の主張する部分対象や移行対象、自己対象との関連性が指摘される。

違うから!そもそも小文字の他者は自分で対象aは相手のことだから!

しかし犬っちはなにがなんでも犬の話で落とすワン。

彼は女性の分析家であるシャープのもとへ来るようになった。分析が滞って進みにくくなっているように見える時期にさしかかっていたある日、彼は自由連想で、「咳払い」のことを気にしはじめ た。しなくてもいいはずのところで咳が出てしまう、これはやっかいなものです、と。咳払いからの彼の連想は、こんな空想へと辿り着いた。「居てはいけないはずのところに僕が居るとしたら、僕はワンワンと吠えるでしょう。そうすると、外から来た人は、『あれは犬だよ』と言って、去ってゆくでしょう」
つまり咳払いは犬の鳴き声を表わしていたのだった。彼は咳払いをするように、ワンワンと鳴く、すると、人々 は、彼のことを「あれは犬だよ」と言って去ってゆく。かくして、彼は、そこに居ること を許されるのだった。そことはどこだろう。それは、女性の分析家の部屋である。父がそのようにして死んだように、彼は女の人の世話を受けつつあるのである。居てはいけない はずの、父の死に場所、母の膝元、そこに、彼は、一匹の犬として、居るのだった。したがって、「あれは犬だよ」という他者たちの声は、彼を、父のような一人の男として許容 する声なのである。むろんそのとき、彼は犬になっていなければならない。犬は、死んだ 父と自分とが同一化した姿を、示しているのである。
女性の分析家の膝元に、一匹の犬として在るということ、それはどんなことだろうか。我々は第一章に戻って、あのアンドレ・ブルトンにたずねてみよう。ナジャと共に過ごした日々、ブルトンは、自分がマリーアントワネットの侍女であったと想像するナジャのそばに、「一匹の狡猾な犬のように」うずくまっていたのだった。

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192.168.0.1は、私が使っている IPアドレスですので勝手に使わないでください --- ある通りすがり

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