ChaldeaGeckoの日記: 映画の記号学的読解とフォーミュラ的読解
記号学的読解というのは、シニフィアンとシニフィエの対応を、映画全体のスコープで考える読解なのです。普通の隠喩やトリックはこれで理解できるのです。アニメ映画『巨蟲列島』では
睦美:昆虫は純粋に、自分たちが生き延びるためだけに進化してきました
睦美:師匠はそのことの素晴らしさを、わたしに理解させてくれたんです
美鈴:ハン!いい話風にまとめんじゃねえよ。なーにが師匠だ。ただの蟲好き変質者じゃねえかっ
「そのこと」というシニフィアンは、普通に観ると「生き延びること」というシニフィエをあらわすように思えるが、よく観ると「えっち♡すること」というシニフィエもあらわすことがわかるのです。こういったトリックであれば、シニフィアンとシニフィエの対応を考えるだけで解けるのです。
フォーミュラ的読解はこれとはまったくことなり、映画『聲の形』では、植野さんは
- 自分がいじめたのだから、西宮さんを好きになってはいけない
- 傘をさしかけてくれたのだから、西宮さんを好きにならなければならない
という強迫の板挟みになっていたが、将也に話すことで2がすこしだけ変化し
- 傘をさしかけてくれたのだから、西宮さんを理解しなければならない
となり、板挟みが解けた。はたして植野さんは西宮さんを理解したところ、今度は1がすこしだけ変化し
- 自分がいじめたのだから、西宮さんを好きにならなくてはいけない
となり、植野さんは西宮さんに恋したのです。
ずいぶん都合良く変わったのですが、すこしだけ変わっただけなのです。
さて、最初の1と2は映画のどこにも描かれていないのです。植野さんがアスペルガーだと理解して、自分でかなり考えてはじめてわかることなのです。これがフォーミュラなのです。犬っち用語なのでよそでは通じないのですが、そもそもよそではこんな話は見たことも聞いたこともないのです。
フォーミュラの重要なところは
- 映画では直接描かれず、観客が苦労して作る必要がある
- 表象を持つ
とくにこの「表象」は大事なのです。『聲の形』ではフォーミュラの「表象」がすこしだけ変わっただけなのに、「意味」は正反対になり、大きく変わったのです。テコみたいなはたらきなのです。
映画『君の名は。』でもフォーミュラが駆使されているのですが、「どうしても名前を思い出せない人、Xさん」というフォーミュラが読解に必須なのです。
フォーミュラの使い方はこんなカンジなのです。
- 観客にトリックを解かせる
- 観客が自分の理解からフォーミュラを作り「表象」を与える
- 観客が作った「表象」を作品が操作し、すこし変化させる。描写レベルでは、ロジックではなくショックを与える
- 観客は変えられた「表象」から意味をくみ取り、読解をつづける
3がキモなのです。『聲の形』では、ターンのステップは「なにかが変わった」ことの隠喩になっており、観客はその「なにか」は自分で考えなければならないのですが、作品解釈としてもっとも自然なのが、自分の作ったフォーミュラを変えることだと気づくのです。『君の名は。』では主人公が大惨事に強いショックを受け、恋人の名前を忘れてしまい、彼女は「Xさん」になるのです。こちらもショックで彼女の名前を忘れたことは決して表面では描かれず、そのことがわかるには、観客はかなり考える必要があるのです。
困ったことに、このテコ=フォーミュラは記号学ではあつかえないのです。フォーミュラの「表象」は作品の中に出てこないが、記号学では作品の中にある記号しか扱えないからなのです。フォーミュラはいわば、読者が読解にもとづき作品を「拡張」するのです。作品の本来の姿をAパートとBパートにわけ、Bパートだけトリックで暗号化してB'とし、A+B'を作品として世に送るのです。読者はA+B'からB'を切り分け、読解してBに復号し、それから本来の姿A+Bを読解するのです。
フォーミュラは文芸的トリックを前提とするから、世界のどんな本にもこんなことは書いてないのです。しかし、ロジックではないショックを描くことにすぐれた方法なのです。
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