ChaldeaGeckoの日記: 超自我とデストルドーと花火
犬っちは簡便に、超自我をなにかやりたいことを妨げるはたらきとおおざっぱに解釈しているワン。死の欲動というものもあるワン。こいつは強烈なエネルギーらしいから、超自我がまっさきに止める必要があるワン。というか、自殺を止めるために超自我のはたらきがあり、倫理や道徳はそれにうまく乗っかっただけだワン。躁になるとどうもこの超自我が弱るようで、倫理観がかなり低下したり、たいした理由もなく自殺したりするワン。超自我はあくまで願望を抑えるだけで、小さくするのではないワン。
映画『聲の形』の西宮さんは、ウツになった最大の原因は祖母の死だから、物語的には自殺の直前にその理由があったわけではなく、飛び降りたのは打ち上げ花火に誘われるような感じだったワン。さて、超自我、デストルドー、感情、リアリティの四極を考えるワン。躁状態においてはは、感情が昂り超自我のはたらきが低下するワン。「砂を噛む」といわれるように、ウツはリアリティの低下だと考えられ、躁うつ混合状態という、非常に自殺しやすい状態もあるワン。リアリティと超自我の機能低下がデストルドーの亢進につながると考えると、シンプルにまとめられるワン。
- 超自我のはたらきが低下して躁になると、デストルドーをおさえきれず、自殺しやすくなる
- リアリティが低下してウツになると、デストルドーをおさえきれず、自殺しやすくなる
- 躁とウツがいっぺんにくる躁うつ混合状態は非常に危険(これは広く知られた事実)
常識的な考えとは逆に、超自我のはたらきの低下が躁を生むと考えるとスッキリするワン。犬っちがさんざん書いているが、脳の演繹的な推論が感情を生み、帰納的な推論がリアリティを生むワン。そうすると感性に相当するのは
- Xのはたらきが低下してY状態になると、デストルドーをおさえきれず、自殺しやすくなる
というフォーミュラがきれいだワン。
このXとYに相当するのは日本語ではなにかわからないが、『聲の形』の花火や、雪が降っているときの車の運転の、吸い込まれそうになるアレとかだワン。Yはたぶん放心状態だから、Xはなにかこう、(自)意識をたもつはたらきだワン。花火やアレは、意識はあっても自意識のない状態だワンね。
- Xが低下すると、デストルドーをおさえきれない
とすると、X={意識をたもつはたらき, 超自我のはたらき, リアリティ}だが、言い換えて、X={自意識をたもつはたらき, 感情をたもつはたらき, リアリティをたもつはたらき}とするワン。
はたらきの主体はというと、超自我が感情を(平静に)たもつが、あとの二つはしっくりこないが、エスが意識をたもち、自我がリアリティをたもつという当てはめしかできないワン。ラカンならぜんぶまとめて象徴界だワン。
超自我がいくら抑ようが、人の感情の振幅は大きいワン。西宮さんのように、逃れられない人間関係もあるワン。光景を見るだけで意識が飛んでしまうことは避けがたくあるのだから(電車はたぶんそうだワン)、ふだんからリアリティを感じていないと自殺にまた一歩近づいてしまうワン。
『聲の形』の植野さんも自殺を考えており、おなじ花火を見ていたが、植野さんの家族はかあちゃんは病気で死んでしまったが円満で、無意識的なところでそのリアリティがデストルドーを止めたワン。西宮さんの家族は彼女を思いやってはいるが、押しつけがましく一方的なもので、障害者の西宮さんは言いたいことも言えずにいたワン。デストルドーをおさえるリアリティは、ふだんのなにげない会話などから生まれると京アニは主張しているワン。それを帰納的推論が生み出すと犬っちは言っているが、おなじことだワン。帰納的推論であれば、文学の得意分野だから、ぼっちでも大丈夫だワン。芸術一般でいえば脳をぜんぶ使うが、帰納的推論すわなち隠喩の理解はことば以外では単純なものしかできないワン。犬っちの日記も科学的ではなく隠喩的に書いてあるワン。
犬っちの実感では、自殺には大した直接的原因はないワン。統計的な原因探しはムダではなくても、それ以外はぶっちゃけ安心したいだけの連中が原因を突き止めたがっているだけワン。耐えられないんだよね、安心できないことに。だから理由をでっち上げてでも安心したい。なぜそれがだめなのかと言うと、深く考えずに網は広くするべきところで、ストーリーを自分で作ってしまい弱っている人をスルーしてしまう。
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