ChaldeaGeckoの日記: リビドー
リビドーはルサンチマン、あるいは自己愛のことだワン。犬っち精神分析では自己愛を自尊心の応急的な代替物としているが、よそはたぶんそんなことしてないワン。
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
注意すべきは、「単なる想像上の復讐」は本来悪いことではないということだワン。真理を知ることができないから、科学で想像的代替物を得たりするワン。でも実際は悪いことが大半だワン。
ニーチェはプラトンが哲学を発明して、知的誠実さとルサンチマンを生み出したと言っているが
精神分析学ではリビドーを、様々の欲求に変換可能な心的エネルギーであると定義している[2]。リビドーはイド(簡単にいえば無意識)を源泉とする。性にまつわるものだけでなく、より正確には人間の性を非常にバラエティに富んだものへと向ける本質的な力と考えられている。リビドーが自我によって防衛・中和化されることで、例えば男根期の露出癖が名誉欲に変わるなど、社会適応性を獲得する。また支配欲動が自己に向かい厳格な超自我を形成して強い倫理観を獲得することもある。
リビドーは非常に性的な性質を持つとして見られる一方で、全ての人間活動はこれの変形としてフロイトは理解している。特に文化的活動や人間の道徳的防衛はリビドーの変形したもの、もしくはそのリビドーから身を守るために自我が無意識的に防衛したものとして理解されている。芸術や科学の活動も、リビドーが自我によって防衛され変形したものである。
ルサンチマンの対象が自分自身に向かえば知的誠実さになるワン。
もちろんプラトンが哲学を発明する前から進化論的な脳の素地があったわけだが、ここで大事なことは、「ことば」がリビドー/ルサンチマン/自己愛を生み出した(増大させた)ことだワン。現代は人と接してばかりで、さらにSNSなんかやってると、ことばの洪水だから、ルサンチマンの塊になるワン。
ルサンチマン(以降、自己愛)の担当は脳の演繹機構であり、高速な判断が目的なので、同一化・共感にもとづく二分思考・敵味方思考を採用しており、瞬間的に感情が昂るワン。感動も攻撃性の多くはここ由来だワン。なぜなら思考による判断は遅すぎるからだワン。感動も嫌悪もあらゆる感情が麻薬的快感を持ち、際限なく感情が昂るのは、効率のよすぎるシステムが、他人との濃密すぎる関係におかれたためワン。また、自己肯定は自己愛の強化につながるから、強い快感を引き起こすワン。自己愛は自立性と効率の高いシステムだが、現代社会の環境が進化論的な想定とはかけはなれたため失調気味だワン。
フロイトのいう自我は、心の機序から「そういうものが必要」として仮のものとして想定されただけワン。だからリビドーをゆがめるのはほかのものだと言ってもフロイトの理論とは矛盾はしないワン。
犬っちではリビドー(自己愛)を建設的・創造的な形に変え発揮させるのは、やっぱり「自我」だワン。フロイトとはちょっと違っていて、(デストルドー, 超自我)と(リビドー, 自我)の組み合わせはパラレルになっているワン。人間のリビドーはことばの力でブーストされているため、進化論的な性能しかない自我が抑えきれなくなってきているというわけだワン。そうすると、デストルドーもことば(的なもの)の影響を受けそうだワン。まあそれが表面化したときにはすでにかなりヤバいんだけど。
- リビドーを自我がコントロールする
- デストルドーを超自我がコントロールする
とするワン。フロイトとの違いは超自我と自我のはたらきを対称にしたことだワン。超自我と自我の区別があいまいになってきたが、主体的なのが自我、主体ではどうにもならんのが超自我だとしておくワン。
リビドーがことばの影響を受けるなら、デストルドーも受けるのか?犬っちは受けると考えているワン。象徴界のはたらきではあるが、意識・想像界にはのぼってこない、無意識でのはたらきだワン。ただ、勇気をふるったときに、なんとなく自分に違和感を覚えたりするかもだワン。むしろ人間の欲動のうち、意識にのぼるものの原因をリビドー、のぼらないのをデストルドーと定義したほうがよさそうだワン。欲動のうち自己愛的なものは定義上前者になるし、後者は自己破壊的なものばかりあつめて隠したものになるワン。ふだんは「死にたい」といった気持ちは無意識に隠しておくのだが、デストルドーが亢進してしまうと、意識とことばの領域に「染み出して」しまうワン。
フロイトのポンチ絵では、氷山は自我と超自我とイドでできており、犬っちでの感情しか見ていないから、フロイトには別れを告げて、用語を再定義するワン。
- 自己愛はことば(的なもの)に大きく影響を受ける
- 自尊心+自己愛を誠実さがコントロールし、心的エネルギーを生む
- 心的エネルギーの意識的な部分は行動力、無意識的な部分は勇気になる。ネガティブだと攻撃性と破壊性になる
二つの欲動を一つにまとめ、自尊心でバイアスしたワン。誠実さは知的、倫理的などすべてひっくるめたメタなものだワン。その理由の一つに、「誠実さが勇気を生む」という隠喩をしたかったことがあるワン。愛と希望も、この無意識的な心的エネルギーにしたいワン。愛も勇気も非常に自覚はしにくいが持続的で、勇気に似ているワン。これらがデストルドー的なものに由来するというのはおもしろみもあるワン。たぶん無意識的で持続的なものはみなデストルドー的で、ここが人間と動物のいちばんの差だと思うワン。愛とか勇気とか希望とか、意識にのぼりっぱなしだと疲れるワン。
しかし愛が感性、希望が知性と親和するのもまた事実だワン。
リビドーは非常に性的な性質を持つとして見られる一方で、全ての人間活動はこれの変形としてフロイトは理解している。
そとから観測できるのは、「自尊心+自己愛を誠実さがコントロールしたもの」だから、コントロールが下がっているとき、酔っぱらったり躁だったりすると、ありのままのリビドーに近づくワン。そうすると性的な性質を持つことが納得できるワン。しかしぶっちゃけ、性的なリビドーをどう変形させれば社会的に好ましい活力になるかは、まったく自明ではないワン。
自己愛はことばのはたらきでブーストされるのだから、性的な活動といっても単純な性欲ではなくことばによる人間関係だワン。それが証拠に、いくら酔っぱらっていても、お〇ん〇んをいじるだけのオ〇ニーをする人はおらず、ピンサロにいったり、AVを見たりするワン。薄い本だとモデルも声もないわけだが、それでも人間関係といわざるを得ないワン。これくらいミニマルになるとわかりやすいが、自己同一化がその正体だワン。エロまんがの人物に自分を同一化して興奮するワン。いっそ自己愛が外部にたいするはたらきはすべて自己同一化であると言いきってもいいワン。なぜなら精神分析の世界では「すべての愛は自己愛である」とされているワン。自己同一化した他者への愛が(人間的)、動物の性欲と結びついたものがエロだワン。動物の性欲は動物的だから自己愛ではありえず、自尊心にあるワン。すべての人間の活動力は、自尊心か自己愛由来だからわりと自在に変形ができるワン。
リビドーが非常に性的な性質を持つというのは暗喩にすぎないワン。恋愛や性行為といったものががきわめて自己愛的なだけであり、ジェネリックな自己愛の大元に性的なものがあるわけではないワン。フロイトはリビドーの強烈なパワーを性的なものにもとめたが、犬っちはことばにもとめるのが違いだワン。フロイトには脳科学の知見がなかったワン。
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