ChaldeaGeckoの日記: 意識体験とデジタル物理学
情報処理の効率化一本で、こういう結論になったワン。
- 意識の世界は物理学の世界を時間反転した世界であり、真に情報を捨てることが、「情報」がどこからか湧いてくることに反転する。
- 情報が湧いてくるところには「感じる主体」が発生する
- その主体に、捨てた「人間の脳の情報」を食わせると、意識体験となる
- 意識体験は鏡像認識からずっとつづいている
意識の由来を解明してしまったワン。現行の物理学に対して、真に情報が捨てられるという拡張があるワン。これは時間の矢を反転すれば、なにもないところから情報が湧いてくるということでもあるワン。情報が湧いてくるところに発生する「感じる主体」を考え、ここまでを物理法則としたワン。
人間の脳の情報を捨てると、感じる主体が発生し、それが脳の情報を食べるから、人間の意識体験になるワン。これですべて物理の話に還元できたワン。
ことばと感情の情報処理はそもそも不可分だワン。論理的思考の基本は二分思考で、それの駆動力になるのがリアリティだワン。二分思考も感情のリアリティがすぎると論理より感情的な対立になるワン。それに自己同一化のはたらきが加わったのが自己愛だワン。二分思考の片方に自分を同一化するワン。自己愛的(ルサンチマン的)思考とは「オレ様vs対象なんでも」のことだワン。しかし、対象のほうにも自己同一化してしまうと、「オレ様vsオレ様」の戦いになるワン。この、どちらが勝利することもない永久的な戦い、これが知的誠実さだワン。
演繹は同定や帰納にくらべ簡単にリアリティ(感動)を生み出すことができるから、人間の情報処理は演繹中心になるワン。感情以外のリアリティがすくないと、正のフィードバックでますます感動以外のリアリティがすくなくなるワン。念押しすると、論理的思考を支えるものはリアリティであり、とくに感情のリアリティだワン。だから論理と感情は切っても切れないワン。人間は感情的思考しかすることができず、論理的思考はその特殊ケースにすぎないワン。
なぜ脳は二分思考なのか?これも効率の問題だワン。人間のずっと昔の先祖から、二分思考は受け継がれているワン。そこでは決定されるべき意志は、食べる/捨てる、逃げる/戦うといった、たいへん原始的なものしかなかったワン。それに対してできるかぎり高速に意志をくだせるようなシステムが二分思考だったワン。
演繹はP:A→Bを実行するが、感覚と感情のI/Oアトムは思考のための脳内アトムよりも出番はずっと多いワン。しかしI/Oにはループはないが、思考にはループがあり、ループがあると効率が悪いから、感情と思考がサブシステム化されているワン。躁うつ病は感情が、統合失調症は思考がおもに障害されるワン。
運動のための出力アトムは、ここから他の参照を連想できない、使い捨ての非再帰的なものだワン。脳内のデータ構造のチェーンも、情報論的に最後はどんづまりのアトムがあるはずだワン。つまり、意識は、「自分のからだ」というタグがついた脳内の情報を捨てるときにあらわれると考えることもできるワン。そうすればデジタル物理学とおなじくらいには(笑)科学になりそうだワン。意識体験が構造的なものであるためには、超情報論的な解釈者が必要だが、その解釈者が捨てられる情報を体験しているワン。つまり、この宇宙の情報処理である脳のはたらきが捨てた情報を、べつの宇宙の人が回収して、逆計算して意識体験として解釈して見ているワン。この宇宙は可逆的な決定論ではなく、真に情報を捨てられるようになっているワン。
ある物を見ているという自己認識は、その物を見ているときではなく、その物を見ているという情報が捨てられるときに発生するワン。ベンジャミン・リベットの意識の遅れは妙に大きいと思ったら、こういうカラクリだったワンね。
研究者たちはまた、それぞれの試行について、動作の時間の前後の脳波の記録を分析した。動作の開始に関係する脳活動は主に第二次運動野を中心に記録され、平均して、実際にボタンが押される500ミリ秒前に出現した。すなわち、研究者たちは、被験者自身が最初に運動開始の意志を自覚して報告した時間よりも、300ミリ秒も以前に、運動開始に関係して増大する脳活動を認めたわけである。言い換えると、見かけ上の動作に関する意識的決定は、脳内の電気活動の無意識的な増大によって先を越されていたわけである。この脳波信号の変化は、準備電位 (readiness potential) または運動準備電位 (Bereitschaftspotential, BP)と呼ばれるようになった。2008年には、別のグループによって、被験者が意思決定を自覚するよりも最大7秒先立って前頭皮質や頭頂皮質に脳活動が認められるという報告があった。[3][4]
脳がボタンを押す運動を開始して(脳活動が計測されて)、実際にボタンが押されるまでがX=500ミリ秒だワン。これが真にボタンを押すのにかかった時間ワン。前後するが
実験の間に、被験者は、動こうという意志に最初に気づいた瞬間にオシロスコープ・タイマーに表示される点の位置を報告するように求められた(リベットの実験装置を用いた対照実験では、誤差の範囲はわずか50ミリ秒であった)。ボタンを押すことによっても、オシロスコープ・タイマーに表示される点の位置が電気的に記録される。記録されたボタン押しの時間と、被験者が動作をする意識的決定の時間を比べることによって、研究者たちは、被験者の最初の意志と結果的な運動との間の時間差を計算することが可能であった。平均して、ボタンを押そうという意識的な意志が最初に出現した時点から、実際にボタンが押されるまでに、およそ200ミリ秒が経過していた。
これはたぶんボタンを押すときに「押します!」と言わせたんだと思うワンが、まず、ボタンを押す処理を脳が開始してから、「押します!」と言う処理を開始するまでのレイテンシーをaミリ秒とするワン。脳の内部処理のレイテンシーだワンね。「押します!」の処理開始から、発声が意識にのぼるまでのレイテンシーをbミリ秒とするワン。ちょうどそのときボタンを押す動作も意識にのぼるワン。この時刻はa+bであり、500ミリ秒-200ミリ秒の300ミリ秒だワン。aとbの比率はわからないワン。このことは、脳の処理の開始は動作に先行し、しかも動作が意識にのぼるまでのレイテンシーは一定していないという事実をしめしているワン。これを練習で一致させないとジャグリングとかできないワン。
さて、脳が処理を開始してから動作が意識にのぼるまでのレイテンシーがバラバラであることには積極的な意味は見いだせないワン。ボタンを押す全動作には500ミリ秒かかるが、ボタン押しから発声までの脳内のレイテンシーはa<300ミリ秒だから、脳はけっこうパイプライン処理をしているワン。意識の同期にはメリットがあるにもかかわらず、スループット命でなければ処理が追い付かないワン。意識にはなんの役割も進化論的意味もなく、情報が捨てられるときにそのつり合いのために他の宇宙にある意識にのぼるだけだと考えるのがもっともシンプルだワン。ここでも情報処理の効率化の観点から説明ができたワン。
意識があるとされるもう一つの宇宙とはどんなものか?それはこの宇宙とピッタリ貼り合わせてあるのだが、観測にはかからない世界だワン。こちらの宇宙は情報を捨て、あちらの宇宙がそれを拾うワン。こちらの世界の情報は物理に乗っているのだから、あちらでも物理に乗っているとしたいワン。そうするといちばんシンプルは考えは
- 宇宙は一つ、時間の矢が二つある
脳は感覚をつうじて情報を得て捨てるが、意識体験はビビッドな光景や感覚をクオリアとして感じるワン。意識体験を逆回しにすれば、脳の信号からビビッドな光景を復元できるワン。時間の矢の片方を物理学、もう片方を意識体験に対応させることができるワン。物理学は最終的に観測者の脳の情報になり捨てられるが、意識体験はどこからか湧いてきた「情報」が出発点だワン。意識の出発点は、このどこからか「情報」が湧くことに求めるしかないワン。意識はなにもないところから生まれることに本質があるワン。意識の信号パターンの情報はつねに捨てられ続けているワン。
りんごの赤さは視神経が作ったローレベルなシニフィエから、ことばのはたらきによって鮮やかな赤というシニフィエに変換され、それがクオリアになるワン。だからクオリア研究なんてやってもムダだワン。感じる主体は情報が湧いてくるところにはどこにもあらわれそうだワン。なんであれ情報を捨てると、感じる主体があらわれるが、人間の脳内の情報を捨てると、そいつは捨てた情報を食べるから、人間の意識体験になるワン。それが物理法則だワン。鏡像認識の体験は最初からずっとつづいていて、それが意識体験になるワン。前ことば的で帰納的かつ再帰的な体験だワン。
この場合、意識と無意識ができることをどう説明するワン?情報がたくさん生成され捨てられるのが意識、そうでないのが無意識になると考えられるワン。意識にのぼるのはまず外界からの刺激と感情だから、これらは差分的ではなく、無意識は差分的に動くと考えられるワン。主観的には感覚と感情は行動を決める最大要因だから、高速にハンドルするためには差分よりも直の値をあつかうほうがいいし、無意識は効率のため差分的に動くほうがいいワン。感じる主体の感じ方が、捨てられた情報量nにたいして線型よりはやく増大する、たとえばn^2で増大するのなら、差分的な無意識は知覚されなくてもなんの不思議もないワン。
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