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日記

KuroButaの日記: 我が家の戦争 1

日記 by KuroButa

台湾統治中は父方の祖父は台湾で郵便局長をしていた。遺影は軍服を着ていて腰には銃剣を帯刀し胸には勲章がついている。戦況悪化に伴い体調を崩し亡くなってしまった。
祖母は鹿児島でもかなりの豪商だった曾祖父(当時としては珍しく車を持っていて全国を移動して反物、主に大島紬を売って回っていたらしい)の7番目の妾の娘で割と裕福だったのですが、戦後は財産の殆どを失った模様。
戦後は鹿児島に引き上げたが、持ってこれる資産に制限があったので、かなり貧乏になった様だ。
叔父さん(父の長兄)は戦争に参加し右腕を失った。しかし弟達が3人いたので戦後は弟達を学校に行かせるために必死に働いた。おかげで末弟の父は鹿児島大学に行くことが出来た。自身も弟達が就職後に夜間大学へ行き勉強を頑張ったようだ。父の次兄は気象庁へ入り、富士山の測候所勤務等を経て、気象衛星ひまわり1号の打ち上げの担当者を務めた。
父は戦争時に爆弾の破片が目に入り、片目が見えなくなった。身体中に沢山の傷が残っている。鉄屑をあさりをよくしていたそうだ。可愛がっていた犬がいたのだが、ある時近所の人が良い肉が手に入ったと言って鍋をご馳走になったが、その肉が実はその犬だったことを聞かされ随分泣いたらしい。また、父は高校の先生をしていたのだが、戦争体験と日教組の影響か、国旗はいいのですが、国歌は認めていませんでした。天皇制には否定派だったのですが今では寛容になっている様です。私は小さい頃は父から焼夷弾の怖さを聞かされてきました。また父の影響で中学生までは国歌斉唱の際は口パクで歌えませんでした。

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