イケメン無罪なのか忖度なのかは知らないが、清々しいまでのダブスタですね。
13591068 journal LARTHの日記: 日本の #MeToo 5 日記 by LARTH 2018年05月06日 22時17分 イケメン無罪なのか忖度なのかは知らないが、清々しいまでのダブスタですね。
日本の名刀 (スコア:2)
おば姉さん方が多弁になる点は、似ているかもしらない。
やばい勘違いなのか恐ろしく冷淡なのか (スコア:2)
そらあなた、何をどう考えた話なのか知りませんが、最近#metoo運動と呼ばれているものは、簡単に言うとソーシャルメディア上でmetooのタグをつけて性暴力やセクハラの被害体験をおシェアする [buzzfeed.com]だけの取り組みですから。
多分山口元メンバーの話であると想定して勝手に話を進めると、この件に関して厳密な意味で#metooする権利があるのは被害者児童(と、もしいるなら過去の類似事例で声を上げ損ねた被害者)で、それでどうなるかというと、この世に性暴力の体験談投稿が何件か増えるだけです。投稿した人であれしない人であれ、性暴力の被害者たちを積極的に守るような枠組みは運動内に存在しない一方で、忖度もイケメン無罪も一切介在する余地はありません(事務所や番組が名乗り出ないように圧力をかける可能性は高いですが、それは被害者らが加害者をどう思うかとは原則関係ないですし)。
何にせよ、明確な指揮系統のあるロビイスト団体みたいなものと混同してらっしゃる。
#もし支援の仕組みみたいなものがあるのを見たとしたら、それはきっと#metooに乗っかったNPOやら弁護士事務所やらクリニックであり、その人たちはその人たちで限られたリソースの中で活動しているため、特定のケースをニュースでよく見るからみたいなしょうもない理由で優先するようプレッシャーをかけるのは迷惑行為以外の何物でもなさげ
Re: (スコア:0)
逆に、財務省の件で#metoo運動をやっているのは、被害記者の求めが有ったからでしたっけ。
ダブスタなのは構わないと思う (スコア:0)
問題は別で、二点挙げられる。
会話も恋愛も性行為も、感じ方は人それぞれで受け入れるか否かは自由に決定できるべきだからダブスタなのは構わない。
問題はそれが明示されないときは基準が不明確で、にも拘らず結果論で断罪しようとしている事。
言うまでもないが、実際自分がどう思われようが、相手が許していると思うなら無罪と考えなければならない。
社会改良運動としてのセクハラという言葉は様々なメリットが認められると思う。
その名前で多くの漠然とした感覚をまとめる事ができるし、積極的な発言を促すことになった。
直接その場では抑圧されがちな対話が促され男女間で一定の認識が形成されることにもなった。
漠然とした不安という形だとしても、意図せず相手を傷つけてしまうという可能性に気づかされた。
その中には女性の側が相手によって言葉や行動の感じ方が違うという、まぁ以前から知られていた事を顕在化したことを含めてもいいだろう。
しかしそうした行為は一般論として、匿名のままで進めるならの話。
名前を挙げた以上、名誉棄損や私的制裁として当然自称「被害者」の側も否定されなければならない。
さらに議論を複雑にするのは推定無罪の原則を双方に適用すれば論理的矛盾をもたらす場合がある、あるいは単なる誤解が存在しうる事だ。
つまり「加害者」が無罪であることは必ずしも「被害者」がそれを許したとか嘘の告発だったとはするべきでないにも関わらず、それが非直感的であるために事態が複雑になる。
例えば被害者が自分が相手を許した事を否定したいがために告発したりするが、そこでどっちに推定無罪を適用するかみたいな不毛な論争が繰り広げられ、どちらも傷つく。
セクハラ議論の問題をもう一つ挙げるならそれは、人々の恋愛観、美男美女の基準、会話や行為のサインの多様性が無視されがちである事。
もちろん誰もが多少の多様性があるのは知っているが、実際には人々の思っている以上に多様性がある。
メディアによって典型的な美男美女が作り上げられたり、人々の間でも基準の統一を図る傾向があるためだ。
だが実際にはどの人をイケメンとするか許すかストライクゾーンや許容範囲かなんて相当に多様だし、会話のルールや性行為の承諾判断に基準を作ることなどできるわけがない。
不快に思うのが嫌だから会話やふれあいの生み出す様々な効用を捨ててひたすら慎重な行動を期すのが正しいわけでもない。
セクハラの議論はそうした多様性を無視した議論が起きがちなのが未成熟と言わざるを得ない。
Re: (スコア:0)
>相手が嫌がっていると知らなければ罪になるべきではないという原則
えっ