Ledの日記: 深夜日記
疑似科学をwikipediaで調べていたら、哲学上の問題でクオリアと言うのがあるという話しにいきついた。
なるほど哲学は「これは一体"何"なのか?」ということを出発点として考えているらしい。
役に立つ、立たないはさておき、赤緑逆転した視覚を持っている人がいるとして、
何か生活に不自由することがあるだろうか。無いと言うのが正解で、かつ違いを実感する
方法がまるで見当たらないから難しい問題とされているのだろう。
ところで、周囲の人から観測した他人という立場でいくとすると、その人の行動に差異が
認められない限り人間関係的には入力と出力が保証されているために何の不具合も無い。
問題はなにかというと「私が見ているあの感じは、あの人も共有できているのだろうか?」
と考えるときなのだろう。
同じ人間と言う種であるからにはある程度共有するところはあるに違いないが、それでいて
遺伝的な差や、育った環境の差によって多少の違いがあるかもしれない。
イルカのものの見方と人間の誰かさんの見方の共通点よりは人間同士でのものの見方の方が
共通点が多いに違いないが、それを定量化する術はいまのところ、定義されてないというわけだ。
しかし、人間は記憶に基づいた知性とでも言うべきものによってどうにか動いているわけで
あるからして、生まれたときの身体的特性から決定される「ものを見た感じ」に対して、
経験から得られた知識によって決定される「ものを見た感じ」も存在するはず。
前者はそれこそ脳をMRIだかなんだかで測定しなけりゃわからんだろうが、後者はある意味で
理論的な思考に当てはめやすいのではないか。
すなわち、ある人xの視覚のクオリア(感じ)は本能部分N(x)と経験部分E(x)の合成によって
決まり、N(x)は個体xに依存するが、モンゴロイドのヒトくらいまで限定してほぼ一定と
みなし、E(x)の見積もりによってある常識的なステートメントを得る事ができる。
もし、ある画像についてE(x) ≒ E(y)ならば(xさんとyさんが似たような経験をしているなら)
二人の視覚のクオリアは似たようなものであろう。
ところが、このステートメントに飛びつくにはまだ準備が足りないことに気がついた。
「ある画像について」の経験とは何かと言うことであり、それは二人の人間が「連想」という
脳内処理を実行することが前提である。
つまるところ先に述べた「知性」という処理系が、どのように過去の記憶を利用しているのか、
という疑問を何とかしなければクオリアを定義することは出来ないのではないか。
というところまで考えて寝る。
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