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Ledの日記: 「アテネ」と「アテナイ」カナ書き問題

日記 by Led

最近古代地中海の文書を読むのにハマっているのだが、ギリシアの地名を日本語カナ書きするときの方法について疑問に思ったので調べてみた。誰もが疑問に思うらしいのだが、どうにも明確なソースを伴った答えがない。どういうことだろうか?

まず、古希のスペルはἈθῆναιという。「アテナイ」というのは「エラスムス式」「古典式」などと呼ばれていて、エラスムスという人物がルネサンスごろに始めた読みかたらしい。あくまで当時の知見に基づいた推測であるらしく、「本当にそれでいいのか?」などの疑問もあり、反対する人は「人工的」などという言葉をつかう。が、学習者の立場からは一文字ずつ見れば発音がわかるというメリットも大きいように思う。日本語でちょっと古代地中海に詳しい本を読むと、大抵このエラスムス式が採用されていて、「アテーナイ」のように長音をつけるかどうかが著者によってばらつく程度である。が、高校の教科書・参考書は断然「アテネ」という表記を使う。不思議である。

さて上記リンクの回答にもある「ラテン語由来」説から調べよう。古代ギリシア語を英語に翻訳するときは、スペルはラテン語由来のものを使うのが一般的らしい。これはperseusに公開されているポリュビオスなどの英訳を結構読んだので確信がある。英語でもAthens(アテネの英語スペル)やIliad(イリアスの英語スペル)など一部のスペルはラテン語でも説明がつかないが、それを考え出すときりがないので日本語に集中したい。

さてギリシア語をラテン文字に直す方法について、日本語ではあまり解説が見つからなかったので苦労したが、英語圏ではromanization(ローマ字化)またはtransliteration(字訳)という作業を行う。これは全ての非ラテン文字語に適用するもので、ISOで決まっていたりするらしい。言ってみればこれは我々が外国語を日本語カナに直すような作業の英語圏版である。このルールに従うと、古希Ἀθῆναιはローマ字でAthenaiになるようだ。おかしい。これでは「アテナイ」に見える。

もっと調べて、このサイトによると昔はαιをaeに直していたなど、他のルールがあったらしい。なるほど!では古希Ἀθῆναιはローマ字でAthenaeだな!だがまだおかしい。それなら「アテナエ」になるはずではないか?

実はラテン語の読みかたにもエラスムス式とそうでない方法があるのだった。このサイトによると現代のヨーロッパ系の言語でよくある感じにaeを「エ」と読む方法がある。これを教会式というらしい。なるほどルネサンスの時代に読みかたの対立が生まれたとして、エラスムスに対抗するのは教会の伝統的な読み方とすれば大変収まりがよろしい。(ローマの話だって「カンネー」と「カンナエ」の二通りの言い方がある)つまり

古希Ἀθῆναι→古代ラテンAthenae→教会式読みカナ書き「アテネ」

という流れとなる。これが「アテネ」の読み方のラテン語由来説といってよいだろう。

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(以下でいうコイネー由来説は多分違う。根拠を最後の方に書いてある。)

が、どうもこれで確定とは思えない。なぜかというと現代ギリシア語の読み方で古希Ἀθῆναιを読んでカナ書きすると「アティネ」になるらしい。横文字の苦手な年配の日本人ならこの発音から「アテネ」と書きそうなものである。この読み方はコイネー(簡略古代ギリシア語)では割と一般的だったらしく、だれが伝えたにせよ、古代地中海の地名などが日本に伝わってきたときにはもうギリシア語の話者はこの読み方をしていたと考えるべきだろう。なおWikipediaによるとコイネー以前はエラスムス式の読み方をしていたと推測されているそうだ。

なお、日本人が今使っている古代ギリシアの地名を伝えた人々の候補はどんなに古くてもマルコポーロ頃の人物だろうと思う。それより古ければ中国人を経由するのがもっともらしいが、そうするとインドの人物名みたいな漢字表記が伝統的に日本に伝わっていないとおかしい。

そこでこちらを「コイネー由来説」ということにして、「アテネ」以外の単語を入れてもう少し調べたい。どちらが正しいのか。最初に気になったのは人物の名前である。人物名のラテン表記は上述の字訳だけでは説明がつかない。分かりやすいのがキリストの名前の表記である。聖書はコイネーで書かれてラテン語訳されたものがローマに広まったそうだ。

さてラテン語訳聖書の標準であるウルガタ聖書では上述のページに示されたような字訳が行われている。このリンクは古希Συροφοινίκισσαが羅Syrophoenissaに字訳されている例でシリア生まれのギリシア人という意味らしい。語尾は文法上の都合で色々に書き換えられてしまうのだが、古希οιが羅oeになっている証拠である。古い字訳に言及したサイト(再掲)の情報はこのウルガタ聖書で裏付けられるだろう。

問題のキリストの名は、ここなど、古希Χριστὸςが羅Christusになる。語尾が古希-ὸςなのが、羅-usになるのが上述の字訳では説明がつかない。カナに直すときに「-オス」と「-ウス」の違いが出てしまう。さて、こういうのはLatinizationというらしい。体系的なルールは生物学方面のルールしか見つからなかったが、割ともっともらしい。なお、わざわざピンポイントでキリストの名を書いている節を引用するのは、次の段落で説明する「曲用」という文法のせいで、古代ギリシア語・ラテン語・英語・日本語の区別がしやすい部分を探す必要があったためである。

名詞の語尾はラテン語・古代ギリシア語の文法の一部になっていて、名詞すら格変化(曲用)するという点がおそらく重要なポイントである。英語の代名詞I, my, me, mine, he, his, him ,hisみたいなのを固有名詞含めてすべての名詞でやるらしい。ここからは推測だが、当時のラテン語を話していた人々が話しやすいように古代ギリシア語の名前の語尾をラテン語の語尾に無理やり変えてしまったのではないだろうか。

なお現代英語で古くから知られている名前は語尾を切り落として使う傾向がある(英Christなど)が、あまりメジャーでない名前は語尾を含むので「アテネ」と「アテナイ」のような問題は英語にもあるのだろう。

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現在の教科書カナ書きは少なくとも二方面からの読み方が混ざっていて、統一されていないことがわかる。参考書「青木世界史B講義の実況中継①」(語学春秋社)を開いてみる。「アテネ」は上述の通り、ラテン語またはコイネー由来といえる。他の例を列挙する。

・アイスキュロス
悲劇作家の「アイスキュロス」は古希Αἰσχύλοςなので、ラテン語化教会式でもコイネーでも「エスキロス」みたいに読まないとおかしいのでエラスムス式である。

・リュケイオン
アリストテレスが作った学園の名前は「リュケイオン」とある。古希スペルはΛύκειονであるが、ラテン語化するとLyceumとなりカナにするなら「リケウム」になるし、古希スペルを現代ギリシア語読みするならば「リケイオン」なのでエラスムス式を採用している。

ラテン語経由を優先している語が一つあった、「黒海」という意味の古希Πόντοςは、エラスムス式とコイネー風の両方で「ポントス」になるが、Latinizationすると羅Pontusとなり、これは「ポントゥス」とカナ書きするべきである。先述の参考書で採用されているのは「ポントゥス」であるので、この語についてはラテン語由来と明確に言える。

「コイネー由来」と明確に言える単語はどうも見つからない。ギリシア語由来と思われる受験用136のボキャブラリーを眺めてみたが、そもそもローマ人がその当時のギリシア人の発音を聞いてそれを音写した可能性が高いので、違いが出るわけはないのかもしれない。

以上のことから、大体同時代の同様の発音であるラテン語化名とコイネー由来名が混ざった状態で日本に入ることも考えにくい。世間で言われている「アテネ」のラテン語由来説は「ポントゥス」という表記が残っている辺りからも強化されると言って終わりにしたい。
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なお、カナ表記が妙なことになっている語を二つ見つけた。つまりエラスムス式とも、ラテン語経由教会式読みとも、コイネー読みともつかない語である。

・シラクサ
古希Συρακοῦσαιで、エラスムス式で読むなら「シュラクサイ」、コイネー風に読むなら「シラクセ」で、Latinizationしたら羅Syrācūsaeであってやっぱり「シラクセ」とよむ。なぜ「サ」で終わるのか。理由があったら知りたい。

・フェニキア
古希Φοινίκηで、エラスムス式「ポイニケ」、コイネー風「フェニキ」、Latinizationしたら羅Phoeniciaだが、これを教会風に読むと「フェニチア」である。羅をエラスムス式ラテン語読みしても「ポイニキア」である。
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ここまで書いて古希οῦの読み方がエラスムス式でも「ウ」でいいのかどうか、と気になって「再建音」の朗読を聞いてみた。紀元前6世紀~前5世紀ごろのου(リンク先Aischylos)は「ウ」か「ウー」にしか聞こえないので、まあそういうものなのかな。

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