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14005235 journal
日記

Ledの日記: 折鶴と祈りの関連に関する仮説

日記 by Led

きっかけはこのツイートを見たこと。

んで、合わない証拠が見つかれば即棄却する前提でこんな仮説を考えた。

1.平安期の安倍晴明の「紙の鳥」
2.江戸以降の誰かがその記録を読んで、折鶴と同一と考えて呪術的な話を吹聴
3.WW2ごろまでに「千人針」等と合わさって「数を揃えることで強くなる」千羽鶴
4.災害見舞などに転用

(書いてて思ったが、今まで調べた内容の自分の興味は1-2辺りなのだが未識魚氏の言ってるのは3-4に近い。そっちの調査も確かに大事そうだ)

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最初に思い出したのは安倍晴明が紙で鳥を作った話なのだが。宇治拾遺物語にて、安倍晴明が道摩法師の呪詛を探知した方法として現れる。どんな風に鳥を作ったかは謎で、鶴ではなくサギだという。

国会図書館のデジタル資料で見つかった明治期の演劇台本「折鶴錦朝日晴着」(1890)には神棚の上に載っているものを隠すほどの折鶴が天井からぶら下がっているという描写があった。「折鶴姫」という人物が出てくるが、別に病気が治る話ではない。

三重県の三嶽寺(天台宗)では、恋愛成就の願掛けを折鶴でするらしい。そういえば↑の台本も恋が実る話のようだ。起源は江戸時代。

昭和38年に日本の宗教家が集まって「折鶴行脚」という活動を行ったらしい。天台宗の寺の恋愛成就でなく、平和や反戦のシンボルとしての折鶴はこの辺だろうか。

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開始時期不明の話は以下に書いておく。

鹿児島県の妙見神社では、願掛けの返礼として折鶴を奉納するらしい。

岐阜県の谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)(天台宗)では「笈摺(おいづる)堂」というお堂があって、そこに千羽鶴を納めるようになっているらしい。「千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納される。」というので、原爆の話よりも前かもしれない。縁起によると、寺ができたのは798年、笈摺堂の由来である花山法皇の笈摺奉納は1008年頃までの間。

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そもそも現代の千羽鶴のポジションが確定した広島原爆にてなくなった禎子さんの話もしっかり復習しておくべきかもしれない。

Wikipediaの記述を信用すると、病床にあった佐々木禎子さんに折鶴を送った高校生がいるという。これが現代日本で、病気の人に千羽鶴を送って治癒を願うやりかたとぴったり一致する。そこから汎用化して、被災した人など不幸な目に遭った人に折鶴を送るようになっているのではないか。

最初の投稿を読み直すと、岐阜ないし愛知県の人が折鶴を佐々木禎子さんに送ったとある。現代の千羽鶴の使われ方にマッチする。岐阜・愛知辺りに人に折鶴を送る習慣があったかどうか要調査。なお、佐々木禎子さん本人は自分の病気を治すという願掛けのために鶴を折ったので、その点では伝統的な願掛けに近いようにも思う。

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  調べてきたので追記

どうやら、「男女の恋愛の象徴」としての扱いの後に「家族愛の象徴」として扱われ、その後戦争の間にだんだん「病床で回復を祈る象徴」になっていったような気がする。

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