Maxの日記: 雑記
迂闊にも昼寝してしまったので、夕方からごそごそとやりたかったことの続きをする。
外は大雨で、気温も高く家の中がなんとなくむっとした状態なので、除湿機をかける。
野菜が沢山あまっていた。知人から頂いたものだ。
新居の改装の手伝いとか、もらい物を差し上げたお返しとか、宴会場を提供したお礼だとか、さまざまな名目でいただいた食材があっという間に溜まってしまった。ありがたいことではあるのだが。
保存が利く加工法があるものは、折をみてキムチにしたり、日持ちのする半調理状態で保存したりしたが、ここ数年は食が細くなったこともあり、一人では食材はなかなか減らない。
でも工夫する。
ネギは薬味用に刻んでタッパ詰して冷凍。
10把もあるので結構な量だ。鮮度のいいうちに冷凍しておくに限る。
裂根したニンジン、細すぎるごぼうを洗って刻んで重ね煮にする。酒と塩を少し加えた以外は無加水でやる。日持ちさせるためだ。
30分ほど圧力鍋をつかって弱火で加熱すると火が通る。
出来上がったものを少し手にとって味見。硬いごぼうがやわらかく、ニンジンの自然な甘さが旨い。結構な量。これは素材としてつかうので、粗熱を取ってフリーザーバッグに半分入れて冷凍、残りは今晩の食卓と明日の晩飯用に。
明日はこれに自作の酒粕と豚肉を少し入れて、粕汁でもつくろうと思う。
長い昼寝から覚めたあとは、何か自分が非常に惨めな目にあっている気がしていた。黙々と厨房で手を動かし、無骨な形の野菜が姿を変えていくさまに付き合っていると、自分の周囲に「輝き」が戻ってくる。こうやっている時に幸福を感じる自分を発見する。
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ここの日記のどこかである方が「愛って何ですか」と問い掛けているのを思い出して考えていた。
私の知っている彼が匿名でコメントをしているようだけれど、それも見ながら考える。
一人の部屋で気に入った音楽をかけ、香を炊いて、友人の作った野菜を料理して食べ、酒を少し飲んで。
愛ってなんだろうと考える。
私にとって『愛』というのは生活の中にあるものだと思う。
穏やかでアタリマエででも繊細で手の中ではぐくんだものが確実に自分に戻ってくる、そういう対象が自分自身の生活の中には沢山あって、これを慈しんで楽しむことからすべてが始まるような気がする・・・・何人かの人に語ったことでもあるんだけど。でも、そういう生活を楽しむためにはそれなりの技量もまた必要なんだろう。自分の作った料理を食べて幸せを感じ、それを誰かと共有してさらに幸せを感じるために必要なこと。私はそれを「趣味」と言っているけれど、本音を言うとそれができなかったら私は辛すぎて生きる意味を見失うかもしれないとさえ思う。
決して単なる慰みの趣味ではないのだ。
自分以外の誰かや何かがが自分を満たしてくれるという思い込みで、私はこれまで一体どれだけ人から奪ってきたんだろう。それを愛だと思い込んでいた時間があまりに長かった気がする。
自分が幸福でないのに、どうして誰かを幸福にできるんだろう。
自分を愛していないのに、どうして誰かを愛せるんだろう。
自分に対して繊細な感覚を働かせることができないのに、どうして他人を思いやることなんてできるんだろう。
たいていの人は自分の中の渇望を、愛という言葉で粉飾して他者に求めつづけているだけなんじゃないだろうか。求めて与えられるものではないように私は思う。
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パウロ・コレーニョという人の書いた「星の巡礼」という本がある。
ニューエイジャーには人気の本なんだろうが、カスタネダの本を薦められたあとにこの本を薦められて読んだ。
そこで「アガペ」について語られている部分があるのだが、この本で作者はアガペを「燃え尽くす愛」と恐ろしい表現をしていた。
野犬に襲われ、素手でその凶暴な犬と死闘を行った主人公に対して、巡礼の旅に随行したガイドがそう語っていた。
前は良くわからなかったが、最近知り合いのバンドでエスニックドラムを叩くようになってからこの意味がわかるような気がしてきた。
バンド経験は学生の頃からバブル期の社会人時代の頃までかなり長くやってきたが、今のように自分のすべてをワンステージのパフォーマンスの間にぶつけるほどの精神的な燃焼を体験したことは無かった。自分が何処にいるのか判らないほどの陶酔と、全身ががたがたになるほどのエネルギーの発散を体験したことは無かった。叩いている間に、自分は何処にいるのか曖昧な感覚と同時に、確実にここに存在しているという感覚とが奇妙に同居しているけれど、その時に感じているのは燃えるような精神の高揚、自己肯定感だった。
目の前にドラムがあれば私にはドラッグはいらないらしい。
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