Pravdaの日記: 主義主張を開陳する媒体
雑誌『ユリイカ』11月号が、ドストエフスキー特集でしたので買って読みました。
その中で、作家の佐藤亜紀さんが「近代の半分とその先の半分」という題で寄稿しているのですが、面白かったのでご紹介まで。
佐藤亜紀といえば、小説のかたわら文藝評論もされている博覧強記の方ですが、まず初めに「(ドストエフスキーの)小説を、人生如何に生くべきやを説く修身の書ではなく、小説を小説として読む読者にとって、その種の思想や哲学とは、いかなるものなのか」と、「今の文学に必要なのは思想であり哲学である」という考えの人をバッサリ排除しています。まあ、小説作法を論じてそれを実践されている方ですからねえ。そして、ドストエフスキーの思想について、以下のように書いています。
ドストエフスキーの「スラブ主義」とやらが余りにも浅薄で、到底真に受けていいものとは思えないこと。どうやら大真面目らしい瞬間のドストエフスキーはまるで小林よしのりだ。
こんな書き方じゃ小林ファンの2ちゃんねらーに叩かれて当然だわな(笑)。でも叩かれつつ一貫した姿勢を崩さない気骨は立派。閑話休題、それではドストエフスキーを全面批判しているかというと、
そして、ドストエフスキーは思想家や宗教家としては幾らか物悲しい人であったとしても、作家としては間違いなく第一級であった。とは即ち、こうした小説のメカニズムを熟知し、それに淫することも知っていたということだ。
つまり、「思索家としてのドストエフスキー」と「小説家としてのドストエフスキー」は乖離している、ということです。
例えば、『ローマ人の物語』などを書いた塩野七生さんは、歴史家としては、かつて専門家から「ルネッサンス講談」と揶揄されましたが、小説家としてのストーリー・テリングは実に魅力的、と引き合いに出すのは強引でしょうか?
やっと本論ですが、佐藤亜紀さんはこの文章の中で、「全く幸いなことに、小説くらい主義主張を開陳するのに適さない媒体はない。啓蒙の道具としては尚更だ」と指摘しています。つまり、作者の主義主張を登場人物の一人に言わせるとすると、当然その登場人物は地位や立場、人格を持っているわけで、その発言は他の登場人物の声や身振りと対比され相対化されてしまう。
また、「全能の神」として作者自身が小説内に君臨して(地の文などで)主張したとしても、今度は、いわゆる「内在する対話」で読み手の思考に行き当たり、どの程度読み手に意図が伝わるか定かではない、と書かれています。むろん前述したように、「小説を(純粋に)小説として読む」読者の話で、修身の書として無批判に受け入れるような読者は別ですが。
そう考えてみると、「映画を(純粋に)映画として観る」観客にとって、映画ほど主義主張を開陳するのに適さない媒体はないんじゃないでしょうか? 再び例をとると、エイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』など、ソ連のプロパガンダ映画という先入観を排して「なんでエイゼンシュテインの映画って、暴力描写になるとあんなに冴えるんでしょうね? もしかしてナチのシンパ?」と言った我が職場の某君は慧眼ですな。実際、ナチスのゲッペルス宣伝相に「我が国にもあんな映画があれば」と言わしめているんだし。(でも、エイゼンシュテインはユダヤ系なので、ナチじゃないですね。)
逆に、どういう媒体が主義主張を開陳するのに向いているかとなると、まず第一に思い当たるのが、正攻法的には思想家や哲学者が書くような論説文。ただしこの形式だと同業者も読みますから浅薄な内容では批判されて葬られる可能性が大。もう一つは要するに「小説を(純粋に)小説として読む」ような読み手の理性や思弁が働くのを妨げればいいでの、煽情的ポスターやスローガンの連呼、カッコいい制服での軍楽行進、短い宣伝ニュース、あと長期的にムードを徐々に形成する宣伝方法など。こっちはお金がかかるかな。
…おっと、後者はナチスがやった手法ですねえ。でもナチスのプロパガンダ手法って、元をたどればボルシェビキなどアカの連中が使った手法ですし、ここでウヨだのサヨだの論じるつもりは無いです。今のおいらの立ち居地としては、「プロパガンダ手法を(純粋に)プロパガンダ手法として見る」ってところ。
脱線ですが、プロパガンダという言葉は、三省堂ワードワイズ・ウェブ [sanseido-publ.co.jp] によると、もともとはローマカトリックの「宣伝機関」の意。語源はラテン語で「挿し木・接ぎ木で増やす」という意味で、近代ラテン語では外国へ向けた伝道師を監督する「布教聖省」をさし、そうした伝道師を養成する機関は「プロパガンダ大学」と呼ばれたそうです。
おいらの持っている本によると16世紀のドイツ農民戦争で、プロテスタントもカトリックもプロパガンダを行ったそうです。「戒律を破ると地獄に堕ちるぞ」というムチと「ウチに改宗するとこんな良いことがあるよ」というアメの二本立ての宣伝は、古今東西どの宗教でも一緒みたいです。
しかしファシズムって、一見イデオロギーや思想がありそうで、実は無いんですよね。ドストエフスキーのスラブ主義やユダヤ人嫌いはマトモでな思想ではないと佐藤亜紀さんは言われてますが、「ナチズム・ファシズムに通底する問題を孕んでいる」とも指摘しています。
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