Pravdaの日記: 補給戦
マーチン・ファン・クレフェルト『補給戦 何が勝敗を決定するのか』(中公文庫)より。
著者は、1946年にオランダで生まれ、1950年にイスラエルに移住した歴史学者。
以下、本のカバーの内容紹介より引用。
ナポレオン戦争から第二次世界大戦のノルマンディ上陸作戦に至るまでの代表的な戦闘を「補給」という観点から徹底的に分析。補給の計画、実施、戦闘への影響を、弾薬、食糧等の具体的な数値と計算に基づいて説明し、補給こそが戦いの勝敗を決するということを初めて明解に論じた名著。待望の復刊。
「軍隊は胃袋で行進する」とはナポレオンの言だそうですが、兵隊は1日当たり3000キロカロリー以上の食糧を摂取できないと飢えてしまうし、軍隊が機械化するまで使われていた馬匹は人間の10倍以上の食糧が必要、という観点を主軸に、17世紀から20世紀までのヨーロッパの主な戦争での補給を論じた本です。
おいらがミリオタでないせいもあるのでしょうが、目からウロコでした。
- 1870年の普仏戦争は「鉄道の勝利」と言われているが、実は違う
- 1914年の第一次大戦のドイツ西部戦線の展開は補給上無謀
- 第二次大戦のロシア戦線は500km以上の進軍は不可
- 第二次大戦の北アフリカ戦線の勝利は名将ロンメルでも無理
- 第二次大戦のノルマンディ以降の連合軍の反攻は全く計画通りでなかった
まず 1.ですが、当時のドイツ鉄道網は戦時体制が整っておらず、また兵站駅に貨物が届いてもそれを前線に運ぶには馬匹に頼らざるを得ないため補給が停滞し、結局、兵士たちの食糧は「現地調達」に頼らざるを得なかったようです。まあ、フランスはヨーロッパ屈指の農業国ですから。またドイツが勝てたのは、5ヶ月の作戦期間中、兵士1人が打った弾丸は僅か平均56発と、背嚢で運ぶのに充分な量で補給の必要がなかったからだとか。
次に 2.は、ドイツのルクセンブルグとの国境から北に向かって兵力を展開し、そのまま左翼を軸にドアを閉めるようにフランスに攻め込む、いわゆるシュリーフェン・プランですが、参謀総長のシュリーフェンも、その後任で計画を手直しした小モルトケも、大きく迂回して進軍する右翼への補給を甘くみていたようです。その結果、右翼がフランスに侵入した時は補給は途絶え兵士は疲労困憊、馬匹は餓死。また上記の 1.とは戦争の形態が変わり、膨大な弾薬を費消したためドイツ軍前線はベルギーに撤退し、かの酸鼻極まる塹壕戦になります。
3.は、ロシアの悪路でたださえ不足気味なトラック隊が立ち往生したのに加え、ドイツとロシアでは鉄道の線路幅が違うため積み替え駅が大混乱になり、さらに鉄道を管轄する部署が一本化されていない組織的マズさも手伝って、ドイツ自慢の機甲師団も常に弾薬と燃料不足に悩まされたようです。もちろん、レニングラードとモスクワ、さらに南ウクライナを目指したヒトラーの戦略ミスも大きいのですが。
4.は、ロンメル将軍がエジプト国境に近いトブルクを攻略した時、補給基地のトリポリ港までの補給線が1600kmに及んだので、往復路上で膨大な補給トラック隊が不可欠です。仮にトラック隊が1日200kmで走り、それで前線の1日分の補給ができたとしても、往復路上に最低6つのトラック隊が必要で、さらに荷積みや荷降ろしの時間を考慮するともっと必要。脱線ですが、開戦時のUボート運用が、全Uボート数の1/3はドックでの整備と乗組員の休養、1/3が戦地と基地間の往復途上、残り1/3が戦地での哨戒だったのと似てますね。
5.は、ノルマンディ上陸とその後の展開計画を練りに練って、補給作戦をたてたはいいのですが、全くその通りにならず、長い間ノルマンディ付近に閉じ込められたため、海岸は補給物資の山。パットン将軍率いる機甲師団の想定外の突進により、やっと戦線が拡大したそうですが、今度はその突進に補給が付いていけなかったとのこと。
上記のようにこの本は「補給」という、ある意味で知性や理知に関する要素を論じていますが、最後の章にこう書かれています。
したがって1944年に連合軍が収めた勝利は、あらかじめ作られた兵站計画を実施したからというより、むしろそれを無視したためだと言っても、必ずしも誇張ではないであろう。結局のところ勝敗を決定したのは、計画を無視し、その場で対策を実施し、危険を冒すだけの積極性があるかないかだった。
うーん、例えば開発プロジェクトで不測の事態にみまわれた時、あらかじめ関連部署やお偉いさんから「承認」を受けた計画スケジュールを変更し、「ここが勝負の分かれ目」と攻勢をかけることが、おいらにはできるだろうか? はなはだ疑問…。
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