Pravdaの日記: 七支刀の謎を解く
吉田晶『七支刀の謎を解く 四世紀後半の百済と倭』(新日本出版社)。初版は2001年。著者は1925年生まれで岡山大学名誉教授。
前のエントリの続きのようなもので、七支刀銘文について、この著者が試みている「宮崎市定の説への反論」を見ていきたいと思います。銘文はWikipediaのページをご参照願います。
まず、年代の「泰■四年」を国史学では「泰和四年」と読み、東晋の太和四年(369年)に比定するのが有力な説で、この本の著者もその説を取っています。これは『日本書記』の神功皇后五十二年九月丙子の条に、
秋九月丁卯朔丙子、久氏等、千熊長彦に従いて詣る。則ち七枝刀一口・七子鏡一面、及種種の重宝を献ず。
と記されていて、「神功皇后五十二年」は西暦252年ですが、『日本書紀』の年次は干支二順=120年古くに設定されている、という学説があるからです。ただし神功皇后が実在の人物だったかどうかは諸説あります。
それでは、この本を見ていきますが、まず「泰■四年五月十六日丙午」の箇所。(P.28)
宮崎がそれまでの通説を排して泰始説をとり、その年代を従来比定されることの多かった西晋武帝の泰始四年(269)ではなく、劉宋の468年に求めたのは、この年の「五月十六日」が干支のうえで「丙午(へいご)」にあたることを発見したことによる。
真っ赤なウソです。そんな記述はどこにもありません。宮崎市定も「丙午は吉祥語で、実際の暦と干支が合ってなくても良い」としています。宮崎説は「なぜ五月十六日なのか?」をキチンと説明し、その上で泰始四年説を唱えていますが、この本の著者は完全にスルーしています。
次に、「■辟百兵」の箇所。(P.35)
〔補:最初の字を「用」と読む〕右のような解釈に対して、宮崎は「辟百兵」の句の前に出・生などの文字があると、この句を限定することになると批判する。〔中略〕漢文の文章法の立場からすると、(21)〔補:最初の字〕には「ほとんど意味を持たない虚字」に読みたいとし、「もって」の意味を持つ「〓」〔辟の偏〕または「用」と解するのが妥当とする。漢文に熟達した碩学の説として尊重したいと思うが、吉祥句としての文章としては、出・生で足りており、そこまでこだわる必要はないと思う。
ずいぶんと恣意的な物言いですな。いくら大昔のこととはいえ、当時は正確に漢文を綴るのがステータスで、適当な字を彫って寄こすと考える方が不自然なように見えますけど。
さらに裏面の、「百濟王世子」の部分。(P.47)
この点で宮崎の倭王武の父にあたる済の諱(実名)を避けるためわざわざ異体字を許したとの説は、その「泰始四年(468)説」とともに成立しないことが明らかになった。
通常の金石文はタガネで彫る工作の都合上、字を簡略化することはあっても画数を増やす例は稀なはずなのですが、なぜわざわざ「濟」と彫ったのか、この本では全く説明されていません。
最後に、「故為倭王旨造」の部分。(P.62)
宮崎は「旨」は「嘗」の略字で、「嘗」は「旨」に通じる「なめる」の意味があり、同時に「試」=「こころみる」の意味もあるとし、「旨造」は元来は「嘗造」で、「試みに造った」の意であり、さらには「はじめて造った」の意味が含まれていた、と解釈する。宮崎説の前提は「旨」は「嘗」の略字であったということにあり、そこから「嘗」字のいわば拡大解釈によって文章を読みとろうとする。
だが嘗と旨は元来は全く異なる語義をもつ漢字である。白川静『字通』によれば、〔以下省略〕
『字通』は現代の辞書で、白川静先生の漢字語源の説が広く支持されているとは言い難いところがあります。この本では「嘗」字にある「神に供する、神が食らいうける」の語義から「すばらしい・優秀な」の意味が派生し、「旨造」は「精巧に製作した」と理解すべき、という王仲殊の説を紹介し、それを支持していますが、もともと彫られている字は「旨」なので、宮崎説と王仲殊説は五十歩百歩と言ってよいでしょう。
結局、この本は「泰和四年(369年)説」をどうしても崩したくないのですね。それならば既に福山敏男と榧本杜人が1950年代に提唱しているので、時代比定に限って言えば、オリジナリティは全くありません。しかし年号が刻まれている金石文では、時代比定が一番肝要な箇所なのですが。(そこから論を展開しようとしても、そもそもの出発点が間違っていたり絞り込めないようでは意味がありません。)
もしも仮に、この程度の宮崎説への反論が広く国史学で受け入れられているとするならば、国史学は実に合理主義からかけ離れた学問だと思いますねえ。
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