Pravdaの日記: 「支那」は悪い言葉か? 2
高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫)の中に、“「支那」はわるいことばだろうか”という文章があり、その要約みたいなものですが…。
1.「中国」という言葉には「中央なるわが国」という含意があり、日本人が他国をそう呼ぶには抵抗がある。戦前の日本人はみな「支那」と呼んできた。むろん中には中国人を見下して言う者もあったが、吉川幸次郎や倉石武四郎のように敬意と親愛の気持ちをもって「支那」と呼ぶ人もいた。
2.「支那」という言葉は、日本が中国に対する蔑称として作ったものではない。がんらい中国には自らの民族・土地・国を全体として呼ぶ語がなく、唐の時代に仏典を求めて中国僧がインドに行った際「我が国のことを何というか?」と尋ね、インドの高僧は「シーヌ」と答えたのに「支那」という漢字をあてたもので、誉め言葉でも貶し言葉でもない。日本には平安時代に入って来た語。
3.明治大正期の中国人留学生は、日本に来るまで「支那」という語を見たこともなく、また日本は中国文化圏の一部分であると考えていたため(今の日本人でも日本を「漢字文化圏」の一部と言うものがいる)、「支那」という耳慣れない言葉で呼ばれ、かつ少なからぬ日本人が軽侮のニュアンスを込めたので、留学生が「支那」という語に敵意を抱いたのは当然。
…という話をふまえ、高島先生は以下のようにおっしゃる。
「おまえが何と言おうと、支那なんてことばは絶対に使いたくないよ」という人が多いであろう。御安心ください。だれもあなたに「中国をやめて支那を使え」と言いはしない。「支那」に不快を感じ「中国」に愛着をおぼえるあなたの選択をわたしは尊重する。
それなのになぜあなたは、「支那」に愛着を持ち、もしくはこの語の使用に合理的理由があると考える者に対して「やめろ。中国と言え」と要求するのか。故人の著作の復刊に対してまで、「支那」を「中国」と変えて出せと言うのか。どこからそんな権限をさずかったのか。
高島俊男は中国文学研究者であり中国語の先生ですが、「中国万歳」の人かというとそれは違う。日本と中国の文化や人の心性は違う、と考えている方であり、また中国共産党を嫌っている人です。
個人的には、翻訳され日本化された中国の書物に愛着はありますが原典に関心はないですし、また日本と中国の間にはヤヤコシイ歴史的経緯があるため、無理に「支那」を使う理由がありません。ただし学術用語や地理用語は別で、過去の著作の改変にも反対。むろん、個人の考えですので、他人様に強いるつもりはありません。
#なお、「言葉狩り」は嫌いです。どんな言葉でも文脈次第で「差別語」になり得ますし、「汚い言葉」を放逐すれば人間の心性が向上するか?、という問いには否定的な見方をしています。
参考リンク (スコア:0)
Re:参考リンク (スコア:1)
> 足元にもこんなのが。「支那」を理解するためのエントリ - Ryo.F の日記 [srad.jp]
ご紹介ありがとうございます。まあ、私としては前のエントリで「露助」を紹介したので、パソコンに高島俊男氏の「支那」についての読書感想文が残っていたため、脳内つながりで、続きのエントリとしてアップロードしてみた次第です。
言葉は本来「ある物A」と「ある物B]を区別するものですが(ソシュール風に言うと「イヌ」と「ヤマイヌ」だったか?)、それが言葉の裏に歴史的経緯とか含意がくっついて、差別を生み出すケースが往々にしてあります。これは日本語に限らず、どんな言語でも同じだと思いますが。
別に/.-Jで何らかの合意を形成しようなどとは思ってなくて(笑)、「露助」や「支那」の言葉の裏にくっついている歴史的経緯とか、私を含めて「こういう意見もある」というあたりを読んでもらえるとありがたい、と思っています。
#中国共産党政府は、隙あらば政治問題にしようとする“opportunist”で、昔のソ連共産党と同じく個人的には大嫌いです。でも政府が嫌いだからそこの国民全員が嫌いか、というと、それはレベルの違う話でしょうね。