Ryo.Fの日記: 井筒和幸の『永遠の0』批判 ※ネタバレ注意 1
今日、やっと『永遠の0』を観た。
で、井筒和幸の批判だが、全く当たらないことを確認した。
この作品が、神風特攻の美化か?
否。少なくとも、良いものとしては扱われていない。
戦争自体、良いものとしては語られていない。
どちらも、人の命をあっけなく奪うものとして描かれている。
教え子達が特攻で無益に死んでいく様を見送り続けた古参パイロット・宮部は、精神を患い、特攻に自ら志願してしまう。
宮部は、同時に出撃する特攻隊員と機体を交換するのだが、それは彼を助けるための機転だったのだ。
という様な内容なのだが、井筒はこれを「そんなことありえない。そんな事実はない」と批判する。
これもおかしな批判だ。
事実しか描いてはいけない、というのなら、ほとんどの映画がダメということになる。
もちろん、井筒自身の映画もそうだ。
まあ、特攻賛美のためにウソまでつくな、ということかもしれないが、そもそもこの映画は特攻を賛美してはいない。
やはり的外れな批判と言わざるを得ないだろう。
なお、この宮部は、実在のパイロット・岩本徹三との類似が指摘されていることを付け加えておこう。
ところで、こんなページを見つけた。『映画エッセイ:井筒和幸監督の『永遠の0』批判問題と特攻映画』
映画『永遠の0』はすでに46億円の興行収入を上げるなど大ヒットを続けている。
ミニブログなどでも多くの人が「感動した」と一様に書き込んでいる。
安倍首相もこの映画を観て感動したと語っている。
そうした声をつぶさに見ていっても「戦争はいけないと思った」といった声は今まで見たことがない。
どうやら鑑賞者はこの映画に感動したのであって反戦について考えた訳ではなさそうだ。
その感動とは如何なる感動であろうか。
これもまったく的外れな批判だ。
普通、この映画を観ると、むしろ戦争はしたくないと考えるだろう。
この映画の最重要点は、生きる、ということであって、戦争反対ではない、というだけのことだ。
最初の方こそゼロ戦の活躍が描かれるが、その後はやられる一方。
史実がそうだからだ。
特攻作戦を聞かされたパイロットたちの苦悩も描かれている。
このページの筆者は、そういう内容をまったく観ずに、勝手な想像だけで、批判しているのだ。
彼も井筒も、本当にバカである。
観ずに批判するのもバカだが、観ても内容を理解しようとしないのも救いようのないバカだ。
追記:
『宮崎駿、『風立ちぬ』と同じ百田尚樹の零戦映画を酷評「嘘八百」「神話捏造」』によると、宮崎駿は、『永遠の0』に関して、観る前から批難するようなことを言ってたようだけど、その後見たのかな? 見てどう思ったんだろうね?
ちなみに、上の記事、以下のようなことを書いている。
百田は、「先日、アニメ『風立ちぬ』の試写を観た。ラストで零戦が現れたとき、思わず声が出てしまった。そのあとの主人公のセリフに涙が出た。素晴らしいアニメだった」と同作を大絶賛。反戦主義の宮崎が零戦映画の製作をしたことで、方向転換したと勘違いして思わずはしゃいでしまったのかもしれないが、今回の宮崎の発言で見事にはね返された格好だ。
アホである。『永遠の0』は零戦映画と読んで差支えないと思うが、『風立ちぬ』は、九試単戦(もしくは九六艦戦)映画である。零戦は、百田の言葉の通り、ラストにほんの少し出るだけだ。少しはマジメに映画を観ろと言いたい。
混同と峻別 (スコア:0)
「負け戦と戦争の区別が付かない者」と架けて、
「特定アジアとアジアの区別の付かない人間」と説く。
その心は「どちらも、連合国(戦勝国)と特定アジアの戦争犯罪はタブーとする」。