SS1の日記: マリみて邪悪史観(トロイカ統治構造編)
「マリみて」終わっちゃいましたね。『ハローグッバイ』で完結。
ホントは「瞳子ちゃんガンバレ編」を先に書くつもりだったのだが,演劇関連の資料を集めあぐねているうちにタイミングを失してしまったのだった。今回は,最終巻というより最初の印象とか,つらつらと。私が最初に思ったのが,初代薔薇様(蓉子,聖,江利子,)のキャラ設定がリアルということ。
あれみて,ウソーとかシンジラレナイとか思う人も多いだろうけど,私が高校時代に入ってた文化部は女系の部長やリーダーの系譜があって,なんか,ほんと「ああいうかんじ」だったんである。まず,
・背が高く姉御肌の白薔薇タイプ
の部長がいて,彼女が部活を取りまとめてて。それから,
・寡黙で心配性の紅薔薇タイプ
がいて,いつもは黙ってるんだけど。ポイント,ポイントで「それで大丈夫なの?」とか。それから・・・ ええと。なんと表現すりゃいいのか。
・好奇心のアニマル,ラッシャー黄薔薇
いやほんと「面白ければなんでもいいのか! 」と,つっこみたくなる方でありました。
とまあ,そんな経験があるもので,マリみてって常々リアルやなぁ・・・ とか,おもって読んでおりました。
Wikipediaの今野 緒雪の記事によれば「本作は内容からファンタジーと比喩されることもあるが、作者の当時の高校時代の雰囲気をそのまま書いていると話す。」とのことで,そこはなんか同意できる。
でもって,2代目が,
夢見がちで感情の起伏が見た目よりも何倍も激しい,おしゃまな紅薔薇タイプの祥子ちゃんになったのも,うちと同じだったりする。彼女の心理面のフォローをする支倉 令のポジはうちでは男子がやってた。あと嫉妬深い由乃ポジも男子。乃梨子ポジは女子。引退後に絡んでくる前薔薇様ポジは,私とか先輩の男子がやってましたね。
最終巻を読んでて思ったのは,瞳子ちゃんにしても菜々ちゃんにしてもキャラが薄いこと。小説としては具合が悪いんだけども。でも,これって実にリアルに思えた。いやほんと高校時代ってああいう感じなのだと思うのだね。
高校1年くらいのときは「強い感情」は持っているんだけど,それを表現できなくて,それが,部活とかで相互作用しているうちにキャラと呼べるような「自分の性格」を表現できる能力が育ってくる。そうやって表現されたキャラが部活での自分の役割(ポジション)を作っていく。だから上級生はキャラが濃いし,下級生は薄いキャラにみえてしまう。そんな循環があるんだろうと思います。
男子の書く小説ではキャラをポジショニングのゲームとして捉えたり,あるいはペルソナ(仮面)として捉えたり,そういう否定的な表現が多いんだけども,マリみて読んでると,もっと原始的な「言葉に出来ない感情」を「自己表現」としてできるようになったのが「キャラ」というイメージを与えられます。じつに肯定的です。
この「自分のキャラを作る」という作業は,やはり高校時代にしておくべきなのかな。とも思います。男子ですと「バカ」なので,高校時代はそんなこと考えません。でもって大学に入ってから,あわてて宮台伸二や宇野常寛みたいに「あとからキャラを作る」立場になってしまうと,「楽なポジ」が残ってなくて大変に苦労することになります。私なんかはもっと後で就職してからキャラをポチポチとネット上で「キャラ」を作ってる感じでしょうか。やぱ,たいへんです。
この「自分のキャラを作る」時期というのは,やはり人それぞれで,ヤンキー系なら中学時代でしょうし,オタク系だったら大学時代にキャラを作り始めて30代になってようやく完成する感じでしょう。どちらが良いとかはいえないんですが,ただ,やはり「自分のキャラ」にとって一番重要なのが10代後半の高校生の時代なのかなと思う。それがヤンキーでもオタクでも「キャラ」のコアは,このあたりで作られてる。というか。
以上のように「キャラ」には,宮台・宇野的な「役割ロールとしてのキャラ」と,マリみて的な「情緒表現としてのキャラ」の2種類があるように思います。で,男子は「役割ロール」が死活にかかってくるので,そっちを重視した言説ばっかりするようになってしまうんですが,「情緒表現としてのキャラ」の感情表現としての豊かさとか,人間存在としての自由さとか,そういう根源的な優位性を持っているなあと感じさせるもの(人物造形)になっていると思います。
そういう感覚の違いは作者の『お釈迦様もみてる!』を読むと,強く感じます。同作品では学園で「源平システム」というのが採用されていて,新入生はどちらかを「選ぶ」ことが出来る。という設定になっています。でも男子の(というか私の)感覚だと,それって「選ぶ」ことを許されてないのだね。なので私の場合,そういう選択を迫られたら,苦しみながら「源氏」を選ぶと思います。理由は単純,私は「甲斐源氏」の系統(…ということになってる)なので「平氏」を選ぶことが許されてないからです。そんな状況で「おれどっちでもないも~ん」なんていえるのは藤原氏だけってことになるわけです。そうじゃない人間は「そんなもん,選べるか~~~!」であります。
というわけで。まとまらないんですが,「役割ロールとしてのキャラ」を選ばなければならない男子と「情緒表現としてのキャラ」を獲得しようとする女子の違いが好対照になってること。で,「情緒表現としてのキャラ」が,自分の役割を作っていく・・・ という健全さ,とか。いやでもそれって「邪悪史観」でみると,とっても邪悪よぉ。と言わざるをえない理由とか。
マリみて主人公の「福沢 祐巳」というキャラは,そういった意味で「役割ロール」的な価値観を破壊し,その弟の「福沢 ユキチ」は「役割ロール」的な価値観で自己を構築する(しなければならない)。という,相互補完的な立場に立たされています。
この相克を一言でいうなら「デモクラシー」となるわけですが。それを統治する立場であれば「 」というのだろうと思います。男子の視点だとそういう「統治構造」の強烈さが,じつにあれなんですが。そういうところにガッツリ踏み込んでるところが,マリみての男子から見たときの面白さなんだろなと思います。
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