TCHIGUILAの日記: さあベール上げて
いつものミサならば司祭が侍者とともに入堂してミサが始まるのだが、 結婚式は司祭ではなく新郎新婦が秘跡を与え会うので、新婦入堂でミサが始まった。 司祭が「集会祈願」というそのミサの意向をまとめた短い祈りを読み上げた後、聖書朗読となる。 朗読に選んだ箇所はヨハネの第一の手紙 4.7-12、朗読者は日曜学校の卒業生で、 嫁様に向かって「結婚するんですか?」と聞けずにもじもじしていた子がいたのだが、 「あの子はどうかしら」という話になって、 考えてみるとそれなりにしっかりとした声が出る適役だと思い、打診したところ快く引き受けてもらった。
続いて聖歌「愛といのち」の独唱があって福音朗読。マタイによる福音書 22.35-40を神父様が読む。 そのあとお説教がある。ここまでは通常のミサとあまりかわりない。
お説教のあと、いよいよ結婚の儀となる。 司祭が2人に向かって問いかける「結婚の意思の確認」の後、 いよいよおなじみの「結婚の誓約」を読み上げる。
わたしたちは夫婦として
順境にあっても逆境にあっても
病気のときも健康のときも
生涯互いに
愛と忠誠を尽くすことを誓います
司祭はミニマイクを装着しているのだが我々は地声だ。前を向いて、 2人合わせて、大きな声で、後ろにいる会衆に聞こえるように…と リハーサルのときに言われていて、ちょっと緊張していたから 少し叫び声っぽくなってしまったが、なんとかつっかえずに言うことが出来た。
司祭が私たちの手の上に按手して言う。 「2人は神の前に夫婦となりました。神が結んだものを 人が分けることはできません」一番大事な事はこれで済んだ。 この人とこの瞬間を迎えるために、ずっと苦しんできた。これで望みがかなう…正直、ほっとした。
次に司祭は指輪を祝別する。デパートで、売り子さんの言うがままおだてるがままに選んだ指輪、 自分が指輪をするなんてことは半年前まで考えたこともなかった。 結婚の段取りを考えていくときにはじめて突如浮かび上がってきたこの無機物。 でも、その指輪をお互いが相手の左薬指にはめると、それはしるしになる。 カトリックの祭儀のほとんど全てがそうなのだが、決め事は言葉だけではなく形を伴う。 私たちが唱えた誓約に伴う形がこの指輪である、と考えると、その意義たるや無論値札に替え難く。 左薬指を ring finger と言う意味は無限に重い。 婚約式の時既に私は 記念の品物として彼女の左薬指に指輪をはめたが、彼女は当日その指輪を右手にはめなおし、左手をあけておいた。 ちなみに私の記念の品物は腕時計なのだが「新郎は時間を気にしてはならない」とのことで ホテルのクローク預りとなっていた。
その後で嫁様のベールを上げる。全く予備知識のない私はベールを上げるだけで 済ませてしまったところ、後ほど大量のクレームを受けることとなった。
続いて結婚証書に署名をする。これは完全に事務手続きであるが、祭壇で行うので非常に見栄えがする。 私と証人をしてくださる先生が右側から。新婦と先生の奥様が左側から。それぞれ祭壇に登る。 私はミサの最中にここに登ったことはない。これからもないだろう。 そこではじめて聖堂全体を見渡すことになった。
びっくりした。本当にびっくりした。
聖堂全部私たちのために来てくれた人たちで埋まっている。
こんな私たちのために、知った顔、懐かしい顔、嬉しい顔、
いろいろな顔がこの祭壇を見つめている。
思わず嬉しいような笑いたいような勝ち誇ったような、山ほどの感激が襲ってきて、
書き慣れた自分の名前を書き記すだけの作業が永遠に続く時間のように感じられた。
証書への署名は、私、嫁様、証人をしてくださった先生夫妻と続き、最後に司祭が署名した。これで教会籍に私たちの秘跡が刻まれた。
その後、司祭を除く4人が祭壇に並ぶ。高輪教会では写真を撮るために参列者が移動する事は遠慮してもらっているが、その替わりに祭壇に登った時に写真を撮る時間を設けているのだ。ちなみに最近急増したカメラ付き携帯電話、ミサオルガンへの影響からミサ中は電源を切ってもらっているが、この時だけは使っても良い、というおまけもある。 署名が終わると一度祭壇を降りて、共同祈願に移る。普段のミサだと神父様のお説教のすぐ後になるが、(結婚式に限らず)何かの秘跡がある場合はそのあと共同祈願になる。お説教や秘跡を受けて、会衆の祈りをまとめる形となる。高輪教会では結婚式のときの祈願は定文になっていて、それを誰かに読んでもらう。今回は(聖書朗読に引続き)日曜学校の卒業生である男の子の双子の兄弟に2つづつ、計4つ頼んでおいた。
新しい門出にあたって、神が二人の上に豊かな祝福を与え、これからの道を守ってくださいますように
二人の愛と信頼がますます深まり、多くの人々を喜びと平和で満たしますように
二人が順境にあっても逆境にあっても、いつも神を信頼し、互いに思いやりを持って助け合うことができますように
二人が夫婦として愛し合う喜びを、人々に示すものとなりますように
その他に我々新郎新婦が両親、家族、兄弟のために読むものが1つあった。
わたしたちが育てられた家庭と両親、兄弟に対して、いつも変わらない感謝と愛の心を保つことができますように
頼んだ2人が読むときは朗読台に登って会衆に向かって読むので問題ない。ところが例によって我々が読むときは祭壇に向かって(つまり会衆に背を向けて)マイクもなしで読まなくてはならない。おまけに2人で調子を合わせなくてはならない。緊張している中ではなんとかこれを読み終える。1度リハーサルしただけなのだ、なかなか上出来だろう。
共同祈願が終わるとミサは感謝の典礼へと進む。キリストが最後の晩餐でささげた感謝のいけにえを今に現す儀式であり、これがないとミサとは言わない。というわけで基本的には毎日行われているミサと変わらないのだが、奉納祈願、叙唱と進むと我々は再び祭壇に登ることになる。もちろん祈願文は「この2人を祝福してください」一辺倒で、文字どおり私たちのためのミサだ。こんな事は一生にこの1度しかない。嬉しいことこの上無い。聖変化を間近に見て全員で主の祈りを唱えた後、平和の挨拶を交わす。過去に参列した結婚式で、この平和の挨拶の時、会衆一同挨拶しあっている隙に新郎新婦祭壇の上で「 」とやるのを見たことがあるのだが、我々の時にはその隙と余裕は無かった。
ここまで進んでようやく聖体拝領となる。ミサは「最後の晩餐」の記念なので、信者がパンを分け合う聖体拝領はミサの中心でありカトリックの祭儀に必須だが、信者しか参加できないと言う難点がある。つまり夫婦どちらかだけが信者だと一方しか聖体拝領が出来ない。「結婚早々それはおかしいじゃないか(主任司祭談)」という訳で、一方だけが信者の場合は聖体拝領をしない。つまりミサではない。日本での信者の比率は微々たるものだから、教会で結婚式を挙げても滅多にミサにはならないのである。
それはともかく聖体拝領である。ます、いつものミサと同様に司祭が聖体(パン)を食べ、御血(葡萄酒)を飲む。その後、司祭は私に聖体を渡す。私はそれを嫁様に渡して嫁様がそれを頂く。嫁様が食べ終ると司祭は嫁様に聖体を渡し、それを私が受けて頂く。いつもならばパンは司祭から受け取るものだが、結婚式は二人が秘跡を授け合うものだから、聖体を授け合う形式となると言う。昼食を食べる暇の無かった私にとってこのパンの味は何とも旨かった。祭壇で頂ける喜びよりも嫁様からの手渡しの嬉しさよりも大きな力が働いたようだった。
続いて司祭から受け取った杯を嫁様に渡す。なんかままごとみたいだが、それに嫁様が口をつける。そして私も杯を受けて飲む。先ほど微量のパンを頂いた食道に、胃袋に御血が染み渡る。全身に染み渡る。じわりと染み渡る。秘跡の力を感じつつ、祭壇を降りる。
さらに引き続いて、会衆の拝領となる。拝領の間、私の座右の酩でもあり、婚約指輪にも彫りこんだ「いつも喜んでいなさい」を歌う。
いつもよろこんでいなさい
絶えず祈りなさい
どんな時にも感謝しなさい
(テサロニケの信徒への手紙一より)
普段とても無理だと思っている、そしてでもそうありたいものだとも思っている。そんな節なのだけど、この日は心から喜んで、祈って、感謝することが出来た。さて、拝領を受ける人はかなりの数だったらしい。親戚には信者はほとんどいないのだが、教会でお世話になっている方達をたくさん呼んだので結果ご聖体が足りなくなった。私達の席の後ろで拝領が行われるので、誰が拝領しているのかわからなかったのだが、聖櫃からご聖体を取り出したのを見て状況を了解した。たくさんの方がお祝いに来てくださった事をあらためて実感する。
聖体拝領が終わると神父様から最後の祝福があっていよいよ退堂となる。メンデルスゾーンの行進曲のファンファーレがなる。高校の音楽の授業で、男ばかり4人で演奏したという妙な思い出があるのだが、今回は教会のオルガンが奏でる中をゆっくりと、ゆっくりと進む。いろいろな方が来てくださっている。お礼なのか自慢なのかわからない愛想をふりまきながら、ドレスにつっかえそうになったりしながら聖堂を出た。表はまぶしかった。
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