Torisugariの日記: きらめく名前
ゲーテの『若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)』に以下のようなくだりがあります。
http://www.gutenberg.org/cache/epub/2407/pg2407.txt
--Wir traten ans Fenster. Es donnerte abseitwärts, und der herrliche Regen säuselte auf das Land, und der erquickendste Wohlgeruch stieg in aller Fülle einer warmen Luft zu uns auf. Sie stand auf ihren Ellenbogen gestützt, ihr Blick durchdrang die Gegend; sie sah gen Himmel und auf mich, ich sah ihr Auge tränenvoll, sie legte ihre Hand auf die meinige und sagte:
"Klopstock!"
--Ich erinnerte mich sogleich der herrlichen Ode, die ihr in Gedanken lag, und versank in dem Strome von Empfindungen, den sie in dieser Losung über mich ausgoß. Ich ertrug's nicht, neigte mich auf ihre Hand und küßte sie unter den wonnevollsten Tränen. --Edler! Hättest du deine Vergötterung in diesem Blicke gesehen, und möcht' ich nun deinen so oft entweihten Namen nie wieder nennen hören!
――彼女(ロッテ)と私(ウェルテル)は窓辺へと歩み寄った。遥か彼方より雷鳴が轟き、粛々と降りしきる雨は大地を潤し、あたり一杯の爽やかなバラの香りが我々を暖かく包んでいた。彼女は肘をついて、外に目をやり、天空を見上げてから私を見た。彼女は瞳を潤ませて、私の手を取って言った:
「クロプシュトック!」
――すぐに、私は彼女が言わんとする荘厳な頌歌に思い至った。その正解から私に降り注いだ感動は怒涛となり、私はその流れに身を任せた。歓喜の涙を流しながら、頭をかがめて彼女の手に接吻せずにはいられなかった。――気高き者よ!あなたは彼女の瞳に宿るほどの崇敬を目にしたことはないでしょう。ときに汚されることの多いあなたの名前も、耳にするのはこれが最後だったらいいのに!
少々、読書感想文的な解説をすると、暴風雨を避けて彼女と二人で外を見ていると、その光景があまりにもクロプシュトックの詩の描写にぴったりだったため、ロッテがそのことに感激してウェルテルに指摘すると、彼まで共感によって感極まってしまうシーンです。春の嵐、中でも雨が重要なテーマになっており、ウェルテルも自分の感動を豪雨による「激流(Strome)」になぞらえています。
ウェルテルの言う「正解(Losung)」ですが、これはゲーテの世代には常識だったようで、初版では「大地の営み(Das Landleben)」という題で、後に改稿されて「春の祝祭(Die Frühlingsfeier)」として知られる頌歌です。Freiburger Anthologieの検索結果に全文が載っています。
http://freiburger-anthologie.ub.uni-freiburg.de/fa/fa.pl?cmd=gedichte&sub=show&add=&id=231&spalten=1
内容をかいつまんで言うと、春の嵐は厳しいが、それもまた神の御業であって、大地を蘇らせるものである、という神への賛歌で、「主は来ませり(nun kommt Jehova)」で締めくくられています。作中に出てくる「エホバの雷(Jehovas Donner)」にはめんくらいますけれど、神が雷を操るのは出エジプトなど、旧約聖書中に言及があることで、頌歌のテーマとして不適当とまでは言えません。ただ、文学史を鑑みるに、多分にプロテスタント的だな、というのが私の素直な感想です。
そもそも、グレゴリウス1世の教皇就任からカール大帝の戴冠に至るまで、カトリックの歴史はそのままゲルマン人への布教の歴史を意味していました。その運動には、ゲルマン的な雷神信仰の棄却があり、近代ドイツ文学が再構成したゲルマン神話は神話色の薄い民話と教化の遅かった北欧に残されたテキストを経由したものです。暴風神オージンや雷神ソールに関する記述はほぼ焚書されてしまったからで、生きた伝統は曜日の名前しかありません。
しかるに、トスカナのダンテが『神曲』でルネサンスを開始し、ドイツの生んだルターがローマの権威を否定して、英国清教徒のミルトンが『失楽園』でプロテスタントとしてのルネサンスをやり直した、という数世紀に跨る反カトリックの流れの上にクロプシュトックがいます。ドイツにはドイツのヤハウェがいて、ついにドイツ人は雷神を取り戻したのです。
ゲーテに代表される古典主義文学は、例えば、土着文化英雄をギリシャ的美女のヘレネと結婚させて、その魂をデウス・エクス・マキナでヤハウェが救うという筋書きであり、やはり、根っ子の部分にあるプロテスタンティズムを無視するわけにはいかないだろうな、と思うのです。
もし、ブラジル人がアマゾンの雷雨を頌歌にしても、ロッテはここまで感激することはなかったでしょうから。
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『十訓抄』に源伊陟に関する逸話が載っています。やや面倒ですが、活字におこしてみます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945602/281
中納言右衛門督源伊陟は、二品中務卿兼明親王の御子なり。村上の御時、近く召し仕ふる間、主上仰せられていはく、「故宮は常に何事かせられし」伊陟「うさぎのかはごろもとかや申す物をこそ、常はもてあそばれ侍りしか」と申されければ、「定めて傳へられたるらん、一見せばや」と仰せ事あり。「やすく候ふ」とて、後日に、封付きたる文を一巻もて参られたり。主上は、裘などにやとおぼしめしけるに、文なり^ひらきてご覧じけるに、「君昏臣諛無處于愬」といふ句あり。文盲の間、これを志(註:変体仮名なので「知」の意)らず、取り出だし給へりけり。さる才藝の人の子にも、かかる人おはしけり。菟裘の賦といふ名だにも、知り給はざりけるにや。
伊陟の父である兼明親王は、生前に円融天皇を恨んでいたので、「君昏」と書いたところ、伊陟は漢字が読めなかったので、父の遺品をそのまま村上天皇(年代的には一條天皇)に渡した、というすごい話です。ただ、解説にもあるように、伊陟文盲説はあまりにも無理がある設定なので、実話ならば、文盲の振りをしたとしか思えません。
この話の要点は「菟裘」が中国の地名であり、『春秋左氏伝』の故事から「隠居」を意味する隠語である、ということです。中国の地名を訓読みした伊陟は、バカにされてもしかたがないのかもしれませんが、この話の難しさは、(私を含めて)現代日本人のほとんどが「菟裘」を知らないので、伊陟を全く笑えないところにあります。
「菟裘賦」は、兼明親王が隠居を宣言しながら隠居できなかった言い訳に付けた名前ですから、伊陟が持っているものが原本だと思われます。その内容を所持者の伊陟が知らない以上、「菟裘賦」という名前を聞いたことがないのは当然であり、最後の文は蛇足に思えます。
元ネタの『古事談』には、この最後の文に相当する部分だけがないので、最後の文は十訓抄の作者の感想なのでしょうが、どうにも違和感がぬぐえません。
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伊陟の父である兼明親王は、有名な歌をのこしています。
七重八重 花は咲けども 山吹の
実の一つだに 無きぞかなしき
落語の「道灌」で有名な歌ですが、私が不審に思うのは、まさに伊陟の存在です。これは、八重山吹の不稔性を託つ歌です。ですから、そもそも、男性である兼明親王が「種が実らないこと」を嘆いているのには感情移入するのはむずかしいでしょう。さらに、兼明親王には、伊陟という息子がいて、孫も紫式部日誌に登場します。決して、兼明親王は八重山吹ではないのです。
山吹に限らず、八重咲きの原因は大体遺伝の異常であって、例えば、おしべが変化して花びらになったりしています。実が稔るわけはないのです。八重咲きの花は、なるほど、豪華絢爛ではありますが、次世代を遺せないという業を背負っているので、これほど女児の名前としてふさわしくないものもないでしょう。もちろん、私は、「女として生まれたからには必ず子供を産むべきだ」といったマチズムには与しませんけれど、一点豪華志向は、成長してから本人が「私が/私たちが八重だ」と号すれば済む話で、生誕時に親が決める方向性としては間違っていると思います。
ですから、仮に私が市役所で窓口に立っていれば、娘に「八重」や「粃」と名付けるような出生届は絶対に受理しません。ここまで読んだあなた方の中にも、まさか、受理するよ、という意見を持つ悪鬼羅刹はいないでしょう。現代的価値観において、子供にふさわしくない名前は多数あると思いますが、まだ「トメ」の方がマシではないでしょうか?
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私は、ときに、教養というものに畏怖の念を覚えることがあります。例えば、もし、あなたがウェルテルの立場にいたとして、泣きぬれた女性が、感激のあまり、あなたの手を握って「クロプシュトック!」と口走ったとして、その感激を共有できるでしょうか?もし、ウェルテルがクロプシュトックの詩を知らなかったら、想像することすら憚られるような、恐ろしい事態に陥るでしょう。私だったら、きっと「はあ?」って言ってしまいますよ。
そして、私がロッテなら、自分ひとりが道化になるようなシチュエーションを避けるために、なぞかけのランクを落とすと思います。なにしろ、「クロプシュトック!」は難易度が高すぎますから、春を祝いたいなら、この際ニュアンスは犠牲にして、「孟浩然!」とか「清少納言!」あたりが妥当でしょう。
もうちょっとニュアンスを削って、「バルス!」にすれば、ほぼ確実に相手はわかってくれるでしょう。余談ですが、新島八重は、生涯、子宝に恵まれませんでした。
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