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日記

Torisugariの日記: 「店閉まい」について

日記 by Torisugari

「語源」という概念は、一種の共同幻想のようなものであって、それが学問的に正しいか、という議論はさして意味がないように思えます。

例えば、日本語では「熱い」を「あつい」と訓じ、「暑い」も「あつい」と発音します。これは、漢語の「熱」や「暑」を日本語に翻訳するときの知恵が回りまわって一般常識として普及しているのでしょう。ここで、前者の「あつい(物体の温度が高いと感じる)」と後者の「あつい(気温が高いと感じる)」は違う概念であるけれど、それを単語として区別することはためらわれます。だって、どっちも「あつい」ですし、その意味も、近代的な表現が許されるなら、温度が高いことには変わりがないでしょう。さらに「温かい」と「暖かい」も、同様に、違う概念でありながら、純粋に訓読みの世界を考えると、区別のためらわれる表現です。

「あつい」と「あつい」、「あたたかい」と「あたたかい」の関係は置くとして、では、「あつい」と「あたたかい」の関係はどうでしょうか?我々はこのような関係を「語源が同じ」と表現したりしますし、実際に、同じ言葉が枝分かれして「あつい」と「あたたかい」になっているのでしょう。これを疑うへそ曲がりは、世間でもよくよく探さないと見つかりません。発音も似ていれば、意味も似ているわけですから。ただし、文献学的な証拠を提出することはできません。なぜなら、おそらく「祖先の単語」から「あつい」と「あたたかい」が分岐したときに、日本人は文字を使っていなかったからです。この証拠を提示する方法は存在せず、代わりに、「この考えで間違っていないだろう」と多くの人が認めることによってはじめて、「同じ語源である」という考え方が正当性を帯びてくるのです。

つまり、語源とは、政治的な主張です。ただ、宗教やイデオロギーと違って、命がけで普及させようとする人が少ないだけです。お金もかかりませんけれど、かといって、これで一儲けするわけにもいきませんしね。

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日本語に「しまう」という動詞があります。「おもちゃをタンスにしまう。」というときの「しまう」です。また、派生語に「しまい」という名詞もあります。「今日のお話はこれでおしまいです。」というときの「しまい」です。

国語辞典をひくと、この言葉の漢字は「仕舞う、終う」及び「仕舞い、終い」となっています。ところが、広告のチラシをみると、ときに、「店閉まいセール」という言葉が踊っています。思うに、これは、熟語の「閉店」を逆さまにして、送り仮名をふったわけで、早い話が誤字です。正しくは「閉店セール」ないし、「店仕舞いセール」と書かなければいけません。「しまう」の「し」と、「しめる」の「し」が偶然同じだったから、広告を書いた人が間違えて漢字を使ってしまったのです。

ところで、「お住まいはどちらですか?」というときの「すまい」は、「住む」が語源であることは疑いないでしょう。古語「すまふ」の連体形「すまひ」を現代仮名遣いしたのが、「すまい」で、「住まう」という動詞も死語ではありません。

「住む」と「住まう」の違いは、例えば、「私は札幌に住む。」と「私は札幌に住まう。」を比べるとわかります。前者は今から引っ越すニュアンスを含むのに対し、後者ではその曖昧さがなく、実際にある程度長く住んでいることになります。このように、動詞の未然形に「う(ふ)」をつけると、継続・反復をあらわす用法になります。英語でいうと、動作動詞と状態動詞の違いみたいなものです。

同様に、「病まふ」という動詞があります。これは、「病む」が病気にかかるという意味であるのにたいして、「病まふ」は継続的に病気にかかっているさまを表現しています。ですから、病気を大和言葉でいうと、「病む」の名詞形である「やみ」ではなく、「病まふ」の名詞形である「やまひ」になるのです。これが、「病は気から」という慣用句を訓ずるときの「やまい」です。

すると、「しまふ」は「しむ」の継続・反復用法であることが推測されます。つまり、「閉む」は動作動詞ですから、パタンと扉を閉めることを指しますが、「閉まふ」は、蔵の扉やタンスの引き出しを閉めた状態を保つことをいうのです。名詞も同様で、「しめ」が単純な開閉のうち閉める動作を指すのにたいして、「しまひ」は閉めきった状態を長く続ける(もう二度と開けない状態にする)の意味なのです。

「すまい」と「やまい」は漢字で書くと、それぞれ「住まい」と「病」ですから元の「住む」と「病む」とは漢字的なつながりがあります。一方の、「しまい」は漢字で書くと「仕舞い」もしくは「終い」ですから、元の「閉む」のニュアンスを字面上は完全に失ってしまいます。このうち「終い」は「終」に訓読みする言葉をあてがっただけですから、その成り立ちがわかるとしても、「仕舞い」の方は完全に当て字です。

元来、「閉める」に「終わらせる」という意味はありません。あくまで、「店を閉める、閉店」という慣用句が「営業を終了する」という意味の隠喩であるというだけです。ですから、「しまう」を「閉まう」と書いてしまうのはやっぱりおかしいのかもしれません。しかし、「閉めたまま二度と開けない」ことを「終焉」の意味で用いだしたのは、他ならぬ我々の祖先であって、我々はその感性を受け継いでいます。

慣用的に間違いだとしても、ちょっとの間、(かつて存在していなかったとしても)「閉まう」という表現を忘れていただけだ、とは考えられないでしょうか?それを許さないのなら、慣用のなんと傲慢なことでしょう。人口に膾炙するのみをもって、正誤を押し付けるとは。だって、語源に基づく「閉まい」が間違いで、当て字の「仕舞い」が正しいわけですからね。

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typodupeerror

計算機科学者とは、壊れていないものを修理する人々のことである

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