WindVoiceの日記: コンクラーベ
CNN.co.jpの記事で、コンクラーベのまえに行われたミサについて、目に留まった記述がありました。
ミサの説教を読み上げたドイツ出身のラッツィンガー首席枢機卿(78)は「教会の信条に従ったはっきりした信仰をもつことは今日、原理主義とレッテルをはられてしまう。こんにちの基準で唯一認められるのは、ありとあらゆる考え方の風に吹かれて流される相対主義のようだ」「私たちは相対主義の独裁に向かっている。相対主義の最大目的は自らのエゴと欲望であり、何一つとして確かなものを認めようとしない」と批判した。ラッツィンガー枢機卿は、新法王の有力者のひとりと言われている。
いまの主義主張(=価値観)の多様化を総称して「相対主義」という呼び方をするのは、私にとって新鮮でした。なるほど世の中にはいろいろな主義主張があるけれど、そのことはつまり、今主流をなしているのは「この考え方はここが優れている、一方で別な考え方はこの点が優れている」と比較検討して、あわよくば(自らのエゴと欲望に合致する)「いいとこ取り」をしようとする考え方だというのです。
確かにそうだな、と思います。国にもよるでしょうが、自由主義社会では、「柔軟な」考え方をすることが、片寄りが少なく、カドがたたず、うまくやっていける考え方だと見なされています。また、どのようなときにも適用できる「真理」などというものは、人間には編み出すことはできないのだ、というようなあきらめも、根底にはあるのではないでしょうか。
この「相対主義」は、柔軟な一方で迷いがちでもあり、なかなか「満足」をもたらしません。もっといいものが世の中にはあるのじゃないか、私がじっくり検討して選んだものは、実はベストな選択ではなかったのではないか…… 「相対主義者」は、日々の努力、多忙な生活にもかかわらず悩みつづけます。
また、選択肢が多いこともすばらしいと考えられがちですが、本当にそうでしょうか。選択肢は3つくらいまでは悩む価値がありますが、100も200も自分の選択しうる未来が示されたら、たとえじっくり考えて一つを選んだとしても、あとから「あのときの選択は正しかったのか」と振り返るだけではないでしょうか。
日記にしては長くなりすぎたので打ち切りますが、「他人の考え方には可能な限り柔軟に、自分の決断にあっては早い段階で選択肢を絞る」ことが、相対主義社会(?)で「選択」することに疲れずに生きてゆくうまい方法なのじゃないかな、と、今日のところはそういうことにしておきます(相対主義的結論だ……)。
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