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日記

YoRの日記: 長尾町史のメモを取ってきた

日記 by YoR

ノートに写した部分のみここに書いて見る。
自分で要点のみ写したもの。
とりあえず、改訂長尾町史から、自分の祖先に関係ありそうな部分だけを書いて見る。この項は都度編集する可能性がある。

846年 讃岐永直、同永成。寒川郡の住人。明法道「二中歴」の10人中の二人。讃岐公から讃岐朝臣へ
 永直の長子は和気朝臣時人。娘は光孝天皇の更衣に上がり、その子に源旧鑑。
(10人の中には、惟宗直本、同公方があり、この子孫から島津氏が出る)
1254年 寒川郡司讃岐朝臣基光の記述有り。上記子孫か。
 1243~1252年まで、寒川郡司
1336年 基光の子、光俊が継ぐ。後見に守護細川顕氏
1344年 寒川七郎上京、また1351年その子二郎太郎が上京。
また、1344年寒川七郎、造田庄を横領
1352年 長尾右衛門尉保守が寒川二郎太郎へ年貢を納める(長尾庄)。このころ寒川二郎太郎は守護代か。
1396年 寒川出羽守元光、長尾、造田の地頭職に。この時期、守護は細川満元
1410年 寒川常文(元光)から寒川出羽守之光へ相伝し領主化の完成
1398年から1414年まで、山城国上久世庄の公文職を元光、之光が訴訟。勝つ。
この間、公文代に寒川貞光→新左衛門光康(~1485)→太郎三郎家光が相伝。
ただし、1427年公文職を解かれる。1441年には畠山氏被官遊佐氏の管理に。

細川勝元旗下で、寒川但馬守元近が勝元より偏諱をいただく。
応仁の乱に出陣。

細川京兆家の跡目争いで澄元(讃州家。阿波守護)が継いだため、讃州は植田氏(十河)以外は大内氏につく。
1507年 寒川左馬介(元家)、十河氏より昼寝城を守る
1519年 寒川氏、大内氏とともに大友討伐へ
1520年 朝鮮へ攻め込む。これは大内氏単独での行動に従う。
1532年 大鉢山と将棋山の間で、十河一存と寒川元政が戦闘。
 鴨部源次、神内左衛門、寒川側にて参戦。左衛門は一存の腕を突くが、討ち取られる。一存、傷に塩を刷り込み、藤かずらを巻いて帰陣する。こののち「鬼十河」と呼ばれる。
1575年 阿波の三好方が昼寝城を攻める。阿波南方に長曾我部氏来寇のため、三好方帰陣。
1576年 寒川氏、織田信長に帰属。
1582年 中富川の合戦に寒川丹後守元隣、同三河守光俊、同権之丞俊元出陣。元隣は討死。

大正6~7 造田村村会議員 寒川政廣。上記子孫か?私の曽祖父に当たる。

以下は寒川系図についての自分の個人的見解。
寒川氏系図には矛盾があるが、光永で終わるのが共通している。光永は元隣の息子、又は弟にあたるようだが、三河守、二郎、七郎などの別名があり、これは光俊(三河守)との混同が有り得る。元隣は信家、政国の別名が考えられるが、政国(丹後守または丹波守)が元隣の息子である可能性もある。とにかく兄弟親子が混乱している。
元政は見える系図には幼名太郎、丹後守で共通しており、政国はその弟(二郎、丹波守)、子(丹後守)、ひ孫(丹後守)に名がある。政国は元政からの偏諱と思われ、ひ孫は考えにくい。弟又は息子と考えるのが自然である。
この一族は「俊」「光」を通字としていると考えられ、嫡流が細川家から偏諱で「元」をいただいたと考えるのが自然かと思われる。
系図には、左馬頭長俊、右馬允継俊、左馬入道元恒(常隣)などがみられる。
出羽守之光の「之」は讃州家(阿波守護)細川義之の偏諱の可能性があるか。

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ナニゲにアレゲなのは、ナニゲなアレゲ -- アレゲ研究家

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