YuiTadの日記: アニメ作家市川崑監督死去
市川崑は日本アニメ史の開祖。mixi日記より転載。」
なのに、あれれ、あれれである。
まず、mixiから(毎日新聞)
<訃報>映画監督の市川崑さん死去、92歳
映画監督の市川崑さんが死去 (毎日新聞 - 02月13日 19:43)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=406571&media_id=2
http://mainichi.jp/select/today/news/20080214k0000m040070000c.html
51年、東宝に移籍し、56年、「ビルマの竪琴」でベネチア映画祭サン・ジョルジョ賞。60年、「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員特別賞。「芸術か記録か」の議論を引き起こした65年の記録映画「東京オリンピック」は、カンヌ国際映画祭批評家連盟賞などを受賞した。「犬神家の一族」(76年)、「忠臣蔵・四十七人の刺客」(94年)、「八つ墓村」(96年)でも斬新な映像感覚を見せた。テレビでも「木枯し紋次郎」などのドラマを手がけた。94年、文化功労者。 毎日新聞
いったい、デビューはいつ? 東宝移籍前にはろくな作品がなかったの?
実は、市川崑の原点はディズニー。時事ではこう伝えている。
時事ドットコム:市川崑監督死去=「ビルマの竪琴」「犬神家の一族」など-ジャンル超えた巨匠
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2008021301009"
1915年、三重県宇治山田市(現伊勢市)生まれ。少年時代は画家を目指したが、ディズニーのアニメ映画を見て感動、18歳で京都の映画会社に入った。動画の下絵描きなどの後に撮影部に移り、48年に野上弥生子原作「花ひらく」で監督デビュー。"
アニメ映画をめざし、入社、動画部門を担当と明記されている。
Variety Japanでは、
Variety Japan | 市川崑監督死去
"1915年11月20日、三重県生まれ。33年、東宝京都スタジオに入社し、音声漫画部に所属。45年に人形劇『娘道成寺』を手掛けた後、東宝争議もあり新東宝へ。"
http://www.varietyjapan.com/news/movie/u3eqp3000002vcu1.html
とあり、新東宝京都スタジオで、音声漫画部に所属、その所属のなかで、人形劇『娘道成寺』を完成させているのだ。
当時の東宝スタジオでのアニメ制作部門は脆弱、市川崑もすぐに実作にかかわっている。
これについては、シネマトゥデイが詳しい。
名匠・市川崑監督が死去、92歳肺炎のため…葬儀は密葬 - シネマトゥデイ | 映画の情報を毎日更新
"市川監督は1936年に『新説カチカチ山』の短編で監督デビューし、映画『 花ひらく 眞知子より』で本格的な長編映画デビューを飾る。"
http://cinematoday.jp/page/N0012868
そう、監督までしたアニメ作品ちゃんとあったのだ。
大メディアがいかに歴史をゆがめようと、市川崑監督の原点はアニメーションであり、確か複数の演出監督作品を完成しているはずだ。この時代、交流は浅いが、『新寶島』の酒井七馬ともすれちがっているはずだ。
本来、ディズニーにあこがれ、人形劇から実写に転進。ケレンのある演出センスもまたアニメ経験があればこそだろう。
国民的作家という看板のもとで、アニメ出身という経歴は、意識的無意識的にに抹消されたのである。
追記 以下の記述のあるページもみつけた。
2008年2月13日 水曜日
市川崑監督とアニメーション
http://xn--owt429bnip.net/2008/02/kon.php
[分野: 演出/庵野秀明] 文:bono (投稿日:2008-02-13)
個人的には、つい先日、『市川崑物語』を観たばかり…。
<アニメーター市川崑>
『市川崑物語』(監督:岩井俊二)
これは、映画人、市川崑の幼少期から太平洋戦争を経て、 現在に至るまでの物語。これまであまり語られることのなかったアニメーター時代などが、貴重な写真や映像と共に語られる。
アニメファンには有名な話ですが、市川崑監督はアニメーション出身です。だけど、『市川崑物語』ほど詳細に扱ったものは、他に知らない。
過去のエピソードやフィルムはもちろん、「ミッキーマウスの時計」を大切にしていたり、今でも「ミッキーマウスのスリッパ」をはいている映像を観て、正直驚かされた。若い頃の一時の気持ちではなく、心底アニメーションが好きだったんだなぁと。
このあとに、市川タイトルと庵野タイトルの実例比較が掲載されている。
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