aruto250の日記: どこからが「自己責任」? 13
日記 by
aruto250
自己責任、という考え方がある。現代の日本では、たぶん広く支持されている考え方だ。私は、自己責任とは「自分で選択した事柄については自分で責任を負え」ということだと認識しているけれど、この考えは同時に、「選択肢の無かった事については責任を負わない」ということになると思っている。
例えば、ニートなんかは典型的な「自業自得で救済の必要のないもの」とされているのを見かけるけれど、学業や仕事でやるべきことをやらなかったのは本当に本人の責任なのか。やるべきことを避け続けてしまう弱い心は本人が望んで手に入れたものか?弱い心は、例えば学生時代に困難を避けていたことが原因で心が鍛えられなかったのだと言うならば、ではその学生時代の困難に立ち向かう心はいつ養われるのか。子供時代に養われるのなら、では子供時代の困難に立ち向かう心はいつ養われるのか、と遡っていくと、もはや最初の一歩に責任を問うことなどできそうにない。
そう言うわけで、自己責任という考え方を支持する人が多いこと自体は仕方ないとしても、その適用にあたっては、人の行動というものに、どれほど選択の余地があるものか、限界まで突き詰めて考えて欲しいと思う。選択の余地が有ったかどうかについて、自分が許せるか許せないかに基づいて線引きするなどという自己欺瞞は止めてもらいたいものだ(が、現状は全てそのようになっているように見える)。
つきつめると (スコア:2)
教育がどうのとか環境がどうのという以前の問題として。
なぜやらなければならないと分かっていることをやらないかというと、やらなくても死なないからです。
死の直前まで追い込んでみて、それで出来るようなことなら自己責任と言って良いと思います。
個人の意思とは関係なく死んでしまったなら選択肢がなかったと言って良いでしょう。
どちらかというと (スコア:0)
機会平等・結果不平等みたいな話?
Re:どちらかというと (スコア:1)
いやもっと広い範囲の話のつもりでしたが、なかなか良い例がなくて…。ネットで自分から悪ふざけを晒して炎上する人とかを例にひいた方が適切だったかも知れませんね。
ただ平等性について言えば、そういう話になると思います。
それについて別に結果の不平等を是正しろとは思いませんが、機会が平等だから結果は個々人の責任、というのは違うかな、みたいな。
Re: (スコア:0)
Nature vs. nurture みたいな話かな?
いずれにせよあまりちゃんとしたコンセンサスのとれてる話じゃない気はする。
Re:どちらかというと (スコア:1)
産まれと育ちのどちらの影響かはともかく、炎上するような悪ふざけをやってしまう自制心の無さ、それを公開してしまう短慮さは、本人が選んで身に着けたものかというと、そんなことないよね、という話しでした。
ネットではたまに見かけるし、最近は増えてきた気もする考え方だけど、いずれにせよコンセンサスは取れてないし、これからも取れなさそうな話でした。
日本人というだけで (スコア:0)
日本人というだけで十分に広い選択肢があるはずなんですが、それは。
Re:日本人というだけで (スコア:1)
社会としては、そのとおりだと思います。それは、(充分かどうかはともかく)多様性という言葉に置き換えられるものですね。
ただ今回はそういう話ではなくて、個々人の内面においては選択肢なんてない(いつの時代のどんな場所でも)よね、というものです。
決定論的な? (スコア:1)
個々人の内面においては選択肢なんてない
ていうことは、哲学の決定論 [wikipedia.org]的な考え方ってことでしょうか?
本当に自由意思はないとお考えですか?
極端な例ですが、殺人を犯した人が「自分が選んだわけではない」ゆえに「自分の罪ではない」と主張してそれを認める考えとか。
認めないならそれこそ自分が許せるか許せないかに基づいて線引きしていて自己欺瞞だと思います。
まぁ、個々人の内面も独立ではないので外からの干渉があり完全な『自由意思』もないと思いますが。人間は良くも悪くも社会的な生物ってことでしょう。
Re:決定論的な? (スコア:1)
ああ、確かに決定論的なことを言ってしまっていました。
しかし粒子の玉突きほどシンプルではないかもしれないにせよ、人間の思考も物理的現象でしかないとの思いから、やはり「決定論的な」感じになるだろうなあと思います。
実際のところ、こういうものをどうすればよいのか考えることがよくありますが、今のところの自分の考えとしては、「罪ではない」です。
とは言え適切なフィードバックがなければ集団(社会)の崩壊につながりますから、「罪でないが、マイナスの報酬を与える」というところに落ち着くかと思います。
(しかしもはや「道徳」の屋根の下から出てしまっているので、「罪」とか「罰」とか「裁く」という考え方ではカバーできないし余計な色が付き過ぎている感じです)
責任を問われなければ成功も与えられない (スコア:0)
子供時代の教育が悪かったからといって責任を免除するなら、成功だって本人に帰するものではなくなってしまいます。
そんなの誰も嬉しくないでしょう。
「十人のうち一人だけが試験に受かる」という条件において、競争に勝ったか負けたかは、個々の自己責任論で問うことはできます。
しかしそもそも合格枠が一人しかないことを参加者の責任に帰することはできません(そんな試験に参加した責任はまた別ですが)。
自己責任論の欠陥というのはそういうことです。
Re:責任を問われなければ成功も与えられない (スコア:1)
成功も本人に帰するものではないというのは、まさにそのつもりで書いています。
ニートも成功した人も、何を報酬と感じ、それに対してどんなアプローチを取り得たかの違いでしかなく、欲に駆動されて動く仕組みは同じです。そこに人間が社会的な評価とかいうものを後付けしているに過ぎないのではないかと。所与のものに操られるように動いた結果が、たまたま現在の人間の社会で評価されるものだっただけで、成功も偶然の産物でしかない。
新自由主義ですね (スコア:0)
甦る夜警国家論。
実際は成功した人間は社会に還元しなければならないし、
失敗した人間は社会が救わなければならないので意味の無い主張というか。
#ポストが赤いのも私のせいです
Re:新自由主義ですね (スコア:2)
> #ポストが赤いのも私のせいです
ポストが赤いのは遠くからでもわかるようにしているのだ。
電信柱が高いのは、電線が人の生活に邪魔にならないようにしているのだ。
そうだ、すべて俺に責任は無い!