パスワードを忘れた? アカウント作成

gunwithoccasionalmusさんのトモダチの日記みんなの日記も見てね。 みんなの日記の更新状況はTwitterの@sradjp_journalsでもチェックできます。

13600519 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: 東映アニメーション株式分割

日記 by gunwithoccasionalmus

東映アニメーションの株式が分割され買いやすくなりました。といっても最低購入代金は30万円以上ですが。
分割前の2018年3月度の株主優待は「HUGっと!プリキュア」「ゲゲゲの鬼太郎」「パンダの大冒険」「サイボーグ009(白黒)」のQUOカードのセットでした。プリキュアと鬼太郎の絵柄はオリジナルだと思います。

13570880 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: まんが「この世界の片隅に」

日記 by gunwithoccasionalmus

「この世界の片隅に」下巻140ページはこんな感じ。

すず「周作さん ありがとう」「この世界の片隅に」「うちを見つけてくれて ありがとう周作さん」
すず「ほいで もう離れんで………」「ずっとそばに居ってください」
(すず、黒い服の人の手をつかむ)
黒い服の人「………………………」
すず「……………………」
黒い服の人「……………………」
(すず。黒い服=鬼イちゃんの人の手を見る)
周作「……………………」
(すず、周作の顔を見る)
すず「すみません」
(鬼イちゃんが手を振りながら去る)
周作「………………」
すず「同じような黒い服じゃったけえ…」
周作「………………………」
(鬼イちゃん、どこかに帰る)

すずは「迷子は嫌だからそばにいてくれ」と言うつもりがプロポーズの受諾みたいな大げさなセリフになり、周作があっけにとられる。
すずが間違えて手をつかんだのは「子供みたいに手を引いて帰ってくれ」と言うのが恥ずかしくて周作の顔を見なかったからですね。
いかにもすずらしいコミカルなシーンだが、鬼イちゃんはすずにも人間に見えていることなどをうまく盛り込んでいる。

本作には「感動的になりそうになったらコミカルなオチがつく」パターンが多いのですが、この箇所もそういうものの一つです。
最後のカラー見開きとシラミの話はそのパターンから外れます。見開きで読む手が止まり、シラミの話は次のページになるからです。

13565726 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: 映画「電人ザボーガー」

日記 by gunwithoccasionalmus

庵野監督はまんが「アストロ球団」についてこう言いました。
https://matome.naver.jp/odai/2134506531813734401
> 庵野 中学時代ですね。読んだのはジャンプ連載時なんですけど、さすがにお金がなかったし、友達の中で『アストロ球団』のコミックス担当はいなかったんですよ。僕は『ど根性ガエル』の担当で(笑)。高校の頃はビクトリー戦終盤のあたりで、笑って読んでたんですよ。「こんなんありかよ」って。でも、大人になってからは笑えないですね。笑ってたところが涙に変わりますよ。泣くしかないですからね、これは。
初代上野球二が死亡するのはブラック球団編で、ビクトリー戦での死者は伊集院大門とバロン森です。

庵野監督を崇拝する筆者も「電人ザボーガー」は笑えませんでした。
ニコニコ同盟のおならロケットは笑うところではありません。いつもへらへら笑っていた新田さんは最後は笑っていないからです。ボーカル抜きですが主題歌が最初にかかったのはここだからです。

13518960 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: アニメは映画ではない 7

日記 by gunwithoccasionalmus

映画芸術の対談によると「映画とはカメラの前で人間が演じるもの」であってアニメは映画ではないそうですが、筆者はこれに賛成です。両者の違いを的確に述べていると思います。
実写映画とアニメは別のリテラシーが必要で、実写を何千本と観たところでアニメをきちんと理解できるとは限らないし、映画芸術の人たちはそれを認識しているからランキングからアニメを外したんだと思います。
もっともアニメ蔑視がそこはかとなく伝わってくるのは確かで、反発もわかりますけどね。

13506285 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: 映画「デビルマン」

日記 by gunwithoccasionalmus

公開当時は映画秘宝や前田有一氏や山本弘氏の影響が大きかったのだろうか。今や前田氏や山本氏はすっかり馬鹿がバレてしまっているが、馬鹿ではないがそそっかしい映画秘宝の町山智浩氏は唯一神又吉イエスが地獄の火の中に投げ込む者達である。(真のエンディング)

13505296 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: 映画「デビルマン」

日記 by gunwithoccasionalmus

デビルマンの登場人物について、力・愛・美の三つの属性を考えると、以下のようになる。愛は他人への愛とする。

     力愛美
不動明 |○○×
美樹  |×○○
サタン |○△○
シレーヌ|○△○
カイム |×○ー
ミーコ |○○○

生き残ったのはミーコと原作のサタンのみだから、生き延びるためには力・愛・美のすべてが必要だと言えそうだ。

デビルマン不動明のデザインはある意味では美しいとも言えるだろうが、映画ではデビルマンのキーホルダーを美樹が気味悪がっていたので、(映画では)明確に×だ。
「美」は口紅一本で変わるようなものだ。だから自尊心や心の強さでもある。
原作の明もあまりメンタルは強いほうではないが、映画では自分の意思でデビルマンになったと思わなければ耐えられないと言っていたから、やはり心の弱さを強調されている。

原作でも映画でもデーモンは繁殖力が低いとされている。であれば恋や愛は人間以上に特別な感情だろう。はじめて知った人の愛に明君は不安なのだ。

原作のシレーヌはカイムと合体することにより○○○に昇格したのでデビルマンを圧倒する強さを見せた。傷がたたって死んでしまったが。
愛が○のミーコはネガとポジだがカイムの役も担っているといえる。果たせるかな、カイムのセリフはこうだ。
「俺は生きのびるつもりはない!」「シレーヌ 君にデビルマンを倒す勝利の感激を味わわせたいだけだ」「シレーヌ 血まみれでも君は美しい」

こうして見ると明と了もネガとポジで、やはり似ている。双子を配役したのはよいアイデアだと思う。

それにしてもなぜ映画「デビルマン」の評判は悪いのだろう。筆者には主役二人の声が出ていないことと、前半が詰め込みすぎなことくらいしか大きな欠点は思いつかない。
※前半も悪くはないのだが、後半と比べてテンポが必要以上に違う。

13504269 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: 映画「デビルマン」

日記 by gunwithoccasionalmus

プライム対象なのでぜひ見ましょう!

映画「デビルマン」のテーマは「生き延びることと、そのための強さ・居場所」であるが、明やミーコからジンメンに食われる同級生やKONISHIKIまで、一貫してそのテーマに沿って描かれている。
KONISHIKIの「デーモン万歳!」のセリフがあげつらわれることも多いが、生き延びることがかなわず、新興宗教の拠点を襲撃され皆殺しにされる場面にはふさわしいセリフだし、ボブ・サップもそうだが、並外れた巨体はそれだけで十分な演出になっている。

もうひとつ、「きれいなもの」というテーマもあって、こちらはサタンやシレーヌから美樹(のストーカー)までやはり一貫しており、強さや居場所と密接に関係づけられている。原作の地球の争奪戦も、印象的な美醜のコントラストもテーマとしてきちんと取り込まれているのです。
ミーコの「きれいって、いいね」も、きれいでなくてはススムを助けることなどできないから、絶対に必要なセリフなのだ。

「わたしは魔女。なめるな!」「あたし、魔女じゃ……ない」をきちんと理解できている人はあんまりいなさそうなので、解説する。

カットバックが入ってややこしいのだが

(ミーコ、追っ手に反撃開始)
ミーコ「わたしたちじゃない」
ミーコ「悪魔はお前ら人間だ!」A

しばらくあいて

(牧村家の襲撃)
美樹「ここよ……」
美樹「あなたたちが人間なら、わたしは魔女になる」X

美樹「わたしは魔女。なめるな!」B

駅員「くたばれ、にん……」

美樹「違う……」「あたし、魔女じゃ……ない」C
美樹「お父さん……お母さん……ごめんなさい」「わたし、生き延びられませんでした」Y

美樹「明くん……」

※美樹の一人称は両親に対しては「わたし」、明などには「あたし」

原作ではAは明のセリフ。Cのセリフは原作そのままで、それ以外は映画で追加された(と思う)。
Aは発言者が変更されたが、「自分たちで殺し合う人間のほうが悪魔だ」という意味合いは変わっていない。変更によりミーコが最重要人物として位置づけられたが、牧村家襲撃のカットバックに挟まれることになった。
Xは映画にのみあるセリフだが、ここではAを踏まえて「人間=悪魔」だから、「魔女」はそうではない存在である。

Bで自分は「人間」ではなくて、それとは違う「魔女」だ、と宣言したのだが、駅員は受け入れなかったのか、「くたばれ、人間」と言いたげであった。美樹は包丁を振り回して反撃に出るものの、あっさり駅員に刺されて倒れてしまう。

Yから、美樹は両親と「生き延びる」約束をしていたことがわかる。美樹は父親から包丁を手渡され、また包丁を見つめながら明の名を呼ぶシーンもある。
駅員もまた包丁で父親と美樹も刺しているので、包丁は善悪の関係なく暴力の象徴だと言えそうで、つまり美樹が約束したのはより正確には「人を殺してでも自分は生き延びる」ことだと言える。生き延びるためとは言え殺人も辞さないのだから、魔女がふさわしい呼び名である。わたしは人だって殺すんだぞ、なめるな、という啖呵なのだ。
しかし美樹は一矢報いることすら出来ずに刺されてしまった。だから美樹は人を殺せる力のある魔女とは違う。啖呵を切ったものの「あたし、魔女じゃ……ない」と言わざるを得ない。BとCの間が20秒ほどしかないことも、美樹の無力さをあらわしているわけですね。ネットではこの間隔が短すぎるとして欠点扱いされていますが、全くの逆なのです。

これが映画における「魔女」の意味であるが、原作はB,Cしかないので、あくまで那須監督の原作解釈(を筆者が解釈したもの)だが、非常に明快かつ論理的だ。このシーン一つとっても、那須監督はきちんと原作を読み込んだ上で己の解釈を映画化したことがわかる。原作を自分の心地良いように読み、映画でセリフをおざなりにした片渕監督とは違う。「デビルマン」が重要なところで「この世界の片隅に」より優れているのは痛快だなあ!

13502440 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: 映画「デビルマン」

日記 by gunwithoccasionalmus

決して駄作ではない。後半はオーソドックスな作りの、むしろ優れた映画といっても過言ではない。唇や稲、観覧車など、まじめに見なければ気がつかないような細かいが効果的な演出が多い。
唇は性的なものの暗喩だが、荒れ具合や汚れ具合が細かい。稲は時間の経過や、来年の田植えをする人はいないだろうことを登場人物が理解していることなどを示す。
観覧車はステンドグラスと対比され、ミーコとススムの関係を暗示する。ここで美樹の「子供をたくさん作る」というセリフが効いてくる。

映画には神は出てこないが、教会という形で明と美樹をつなぐものとなっている。サタン=了が神と敵対することは映画では明と美樹の間を裂くことになり、三角関係が原作より明確化されている。

牧村家が悪魔捜査隊に疑われ、父母と美樹を守るために明が名乗り出るシーンがある。明は当然納得ずくだが、一度は家族と受け入れた彼を犠牲にしたことをは否めず、美樹は涙を流す。
牧村家が暴徒に襲撃された時は、美樹は両親を犠牲にしてでも長く生き延びることを選んだ。この二つはストーリー的にはごく自然だが、違いは大きいようでもあり、微妙なようでもある。
実際のところ、美樹は両親を犠牲にすることに相当抵抗しただろう。つまり映画では直接描かなかった部分に核心があることになる。「映画はセリフで説明してはいけない」という主張を認めるなら、これはさらに高度な技法であることを認めざるを得ないだろう。

主役の二人は発声が悪いのだが演技は下手ではない。悪名高い「ハッピーバースデー、デビルマン」も悲しさや憤りを感じさせるし、(明の、お前生きていたのか、という呼びかけに対して)「サタンだからな」というセリフからは、自分を心配してくれたにもかかわらず、「馬鹿馬鹿しい呼びかけだ」という心情がしっかり読み取れる。

13501100 journal
日記

gunwithoccasionalmusの日記: 映画「メッセージ」

日記 by gunwithoccasionalmus

前に書いたエントリーでコメントを頂いた時は書けませんでしたが、小説ではルイーズは娘の死にいくらかの責任を感じていたのですね。

> あなたの反抗的な気性を考えれば、あなたを守ろうとするわたしの努力がクライミングへの愛着を育んでしまうのだと信じてもいいような気がする。最初は児童公園のジャングルジム、つぎは近所の緑地帯に生えている木々、そしてクライミング・クラブの岩壁、最後は国立公園の断崖絶壁 ─ ─

これは全く理不尽ではあるが、ものごとに本質があるのなら、得てしてこういうところにあるのだろう。

映画では娘の死は幼くして病で死ぬように改変された。
自分が他人の死に責任がある(かもしれない)、、あるいは自ら死を選ぶ未来が確定しているのなら、「メッセージ」の世界では彼はそれでも幸せになれるのだろうか。
映画ではヘプタポッドの片方が(そうと知りながら)死ぬことになるのだが、それは全体主義とどう違うのか。

typodupeerror

にわかな奴ほど語りたがる -- あるハッカー

読み込み中...