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日記

gunwithoccasionalmusの日記: 「ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ」は同性愛アニメだった! 7

日記 by gunwithoccasionalmus

いやー、汲めども尽きぬ怖ろしい作品です。

この映画では一部の男性たちは早々に人形にされ、残る男性たちはみな害をなすので女性たちが力を合わせて撃退し、女性の楽園を築きます。この映画を折りたたみ小さくしていくと、最後には「男は殺して女同士で愛し合いましょう」になります。つまりこの映画の本質は女性の同性愛です。ふつうに観ていれば気づくことはありませんが、いったん気づくと濃密なユリ臭にむせかえってしまいます。プリキュア映画だから女性同士で手を取り合ったり、女性が女性を抱きしめたりするのはあたりまえですが、それらがことごとく、こちらが気恥ずかしくなるような強烈なユリ臭を放つようになります。この映画には「愛」の表象があふれ、「うまくいかない愛(人形劇も)」が「うまくいく愛」に変わっていく物語だということがわかります。物語の終わり、キュアラブリーは男性への憎しみや残酷さをあらわにし、彼女はチームメイトから「愛しているわ、ラブリー」というメッセージを受け取り、また、つむぎにも愛されます。「人形の国のバレリーナ」は、傷ついたキュアラブリーが女性全員から愛され癒されるお話です。男性を犠牲にして。そういえば今監督の「世界一初恋」も同性愛アニメでした。

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  • by Anonymous Coward on 2019年02月08日 12時09分 (#3561881)

    タケカワユキヒデも歌詞作りのコツということでいっていたが、
    親愛を表す表現は「恋人に対するそれ」のつもりで書くといい感じになるそうだ。
    味方に男性キャラがいないのは、男性キャラを絡ませると主要キャラの絆っていうポイントがずれるからで、
    #あの作品の味方男性キャラは基本マクガフィン
    ユリっぽく感じたのは「世の中のその手の表現はだいたいそういうもの」ということにすぎないってレベル。
    #キン肉マンとか、テリーマンの献身とかタッグトーナメントのサンシャインの嘆きとかわりとそれが濃い。
    #ただあっちはキャラが多い上、キン肉マンへのベクトルが多いから気づきにくいだけ

    要は、見たいものを見ただけの話。

    • すみません。調子にのってユリユリ言いすぎました。

      まんがにしろ映画にしろ、作者は大事なことはぜんぶ隠してしまいます。直接描けないことがらもあるし、読者は隠されていたものを「自分で」見つけたときに、最大のインパクトを受けます。みんなエヴァとかまどマギとかガルパンとかけもフレを一生懸命解釈してました。その結果、隠さないときよりも作品がずっと奥の深いものになります。ちなみにものを隠す最良の方法は、目の前にどーんと置くことです。なぜかみんなの目に入らなくなります。探偵小説でもそうです。

      隠されたものを見つける一つの方法は、お話から肉の部分を剥ぎ取って骨格だけにすることです。骨格だけにしてしまえば、いかにも隠されていそうな場所がかんたんにわかるようになるので、そこを集中的に探せばよいのです。まんが「この世界の片隅に」だと、「誰が誰を愛しているか」に注目した骨格にしてみれば、「すずは子供のころから水原を愛していて、結婚生活中もずっと水原を想い、青葉の浮上の場面でようやく吹っ切った」ことがわかります。これは題名やセリフの意味を予断なくていねいに読んでいったときと同じ結論であり、非常にロバストです。アニメでは片渕監督が重要な部分をカットしてしまったので、この結論は導けなくなります。勘のいい人でも「はっきりした根拠はないが、なんとなくそう思う」しかありません。

      お話全体を総括する場合は、注目すべきは女、男、愛、殺人です。これが物語の本質だと考えられているようです。人物の感情や意志はすべてそぎ落とします。そうすると「人形の国のバレリーナ」は「男を殺して女同士で愛しあう」となります。初代の宇宙戦艦ヤマトでは、「女が男二人を争わせ、負けた男は死に、勝った男は女に愛される」が三組あります。女はスターシャ、森雪、放射能助教装置です。男は古代守とデスラー、古代進と他の乗組員、地球とガミラスです。主題歌とエンディング曲が「ヤマトは女が男を選ぶ話だ」ということを暗示しています。こうしてみると2199は完全に別物であり、「北斗の拳」のほうがよほどヤマトに近い。

      親コメント
      • 「人形の国のバレリーナ」は「男を殺して女同士で愛しあう」話だと理解したら、注目すべき「男を殺す」場面と「女同士で愛し合う」場面を探します。前者から見ていきます。

        「男を殺す」場面にはジークの死とブラックファング戦があります。敵であるジークの死にさいしたキュアラブリーは「もう、怒ったんだから!」。元の人形に戻っただけやろ。これが彼女の本質(の一つ)です。ブラックファング戦では、ラブリーはつむぎの応援(愛)を受けてスーパーハピネスラブリーになります。最後には「もう、怒った」ラブリーは躊躇なくブラックファングを殺します。ブラックファングは誰も殺していないのに。しかもおかしな笑みを浮かべて残酷に、死体も残さず消し去る。これも彼女の本質です。

        「女同士で愛し合う」場面ですが、最後のつむぎとラブリーの場面は、どうみてもつむぎのほうがラブリーより精神的上位にあります。ラブリーは愛され体質なのです。残酷なくせに。スーパーハピネスラブリーにチームメイトが追い付いた場面では、「ハピネース、チャージ!」のときと同じように四人が手を重ねます。ただしこちらではラブリーの手はいちばん下なので、手のひらでチームメイトの手のあたたかさを感じることができません。それで不思議そうな顔をしていたのです。三人はお互い笑いあって、みな知っています。つまりこの場面はいかにラブリーがチームメイトに愛されているかを描いたものです。残酷なくせに。

        普通に観ていれば、ラブリーの愛され体質はわかっても、彼女が残酷であることに気づくのは至難の業でしょう。なぜならそれは作家が隠したからです。四人の場面では主題歌が流れ、プリキュアが御託を述べるので、普通に観ているとやはりそっちのカッコよさに気を取られると思います。ここでも作者はもっと大事なことを隠しました。こうやってお話を骨格にすれば、肉に邪魔され惑わされた「はっきりとはいえないが、なんとなくそう」ではなく、確信をもって映画を観ることができ、ラブリーの愛され体質に引きずり込まれることは不可避です。

        親コメント
        • 古今東西のどんな文学作品を読んでも、愛されることと残酷なことが女の定義みたいなものです。スターシャも森雪も放射能除去装置もユリアもボッコちゃんもそうです。ラブリーは女オブ女なのです。すずもそうです。片渕監督は「すずさん」と呼んでアイドル扱いしていますが。念のためつけくわえておくと、この「女」はファムファタールとか悪女とかいわれるもので、大人向けの文学にはたいていでてきます。北斗の拳とか。でてこなかったらたいていは子供向けです。2199とか。

          女児アニメのヒロインがファムファタールだというのもいいかげんひどい話ですが、筆者にはキュアラブリーは躁うつ病にしか見えないんですね。こんな感じで検討してみたけど、なんどやってもそうだとしかいえない。「聲の形」の植野さんもどうしてもアスペルガーにしか見えない。植野さんの行動をぜんぶ説明できてしまうし、それ以外だと説明できない。すずも発達障害に見えるが、これはまだそう思うレベル。でも水原が好きなのに周作に嫁いだのも発達障害のためだといいだすと、もうめちゃくちゃになるな。アニメのヒロインに精神疾患ブームがきてるのか、それとも日本のアニメの描写力の水準がそこまで上がったのか。

          親コメント
      • ヤマトの結末はジェノサイドが不可避でした。なぜなら女をめぐる争いでは強い方が勝つとは限らず、相手を生かしておくと女を奪われるからです。古代進のセリフ「我々は、戦うべきではなかった。愛し合うべきだった!勝利か。……くそでも喰らえ! 」は実に意味深長です。「男同士で愛し合おう。女はいらない」という意味ですから。女を取りあうから苦しいのであって、女を守るための戦いなら苦しくはないのです。ヤマトは宇宙規模のファム・ファタールの話でした。

        --
        「宇宙戦艦ヤマト」のオープニング曲とエンディング曲はどちらも阿久悠先生の作詞ですが、それぞれに共通することばは多く、あらわれた順に並べると、オープニング曲では
        > 旅立つ 宇宙 かならず帰る 手をふる人に はるばる ロマン 誰かが
        エンディング曲では
        > あの娘がふっていた真っ赤なスカーフ 誰のため 旅立つ ロマン かならず帰る はるばる 宇宙
        の順番でした。適当にならんでいるわけではなく、この順番で重要なことばだと考えてかまいません。
        「旅立つ」「かならず帰る」のはヤマトのストーリーだから、それより前を調べると、オープニング曲は
        > (空)
        エンディング曲は
        > あの娘がふっていた真っ赤なスカーフ 誰のため
        となります。「誰のため」は「誰かが」と主客で対比されているので、これがもっとも重要なことばであることがわかります。「手」「人」と「真っ赤なスカーフ」「あの娘」が対比されており、こちらも非常に重要です。ヤマトの航海をあらわす、「旅立つ」と「かならず帰る」の間に、それぞれ「宇宙」と「ロマン」が入り、それぞれの曲の意味が強調されています。ヤマトの本当の主題は、「あの娘」「誰のため」、すなわち、女は誰を選ぶのかということであり、勇ましいオープニング曲はダミーだということがわかります。

        親コメント
      • ことばの意味からまんがの主題を探るにはこうします。大ゴマには重要な意味があるというあたりまえなことを、ふつに読めばスルーしてしまいがちなのがわかります。片渕監督はスルーしたので、「それが出来んようなら忘れてくれ」を不用意に削ってしまい、すずが水原を思い出すのは晴美級に辛いことだということがわからなくなってしまいました。なにが笑顔の入れ物だ、笑わせるんじゃない。

        --
        このまんがの題名は「この世界の片隅に」です。同じ字面のセリフがある、広島の橋の場面との関係に限って考えます。「に」は自分のいる場所と対象がいる場所が離れている場合に用い、「で」はどちらも同じ場所にいる場合に用います。つまりこの題名は、結婚のため呉の周作が広島「に」すずを見つけたことを指します。広島の橋でのセリフの「この世界の片隅に」は一場面の小さな範囲なので広島の橋のことですが、周作は片隅「で」片隅のすずを見つけたので、まんが全体を範囲にする題名の指すものではありません。両者は文脈の異なる別物です。ダブルミーニングではないが、作者は積極的に混同させギャグのネタにしているし、あとで述べるよう、それ以上に重要な意味を持たせています。
        「片隅」は寂しい場所のことです。すみっこなんだから当然ですね。「片隅」はいろいろ描かれますが、題名にふさわしいものは上巻2-3ページ目のカラー見開きです。これと同じ構図の絵が作中にあり、そちらには水原が描かれているので、これは広島の光景だということがわかります。カラー見開きはもうひとつあり、呉の山々を描いたものです。これらはまんがの最初と最後で対になっています。広島が片隅なのは水原がいなかったからです。水兵になった水原は広島を去り、兄の七回忌でようやく帰省した彼に会ったすずが真っ赤になっています。それを意識して読むと、すずはぼーっとしているように見えてかなりの激情家であり、終盤でようやく青葉=水原を吹っ切り過去の人としました。重巡洋艦が昇天するビジュアルはインパクトが大きく、水原への想いの大きさがよくわかります。。
        広島の橋でのすずのセリフは大げさで、まるでプロポーズの受諾のようです。あれは、迷子になりたくないから手を引いてほしいけど、子供みたいで恥ずかしいから顔を見られず手だけ見てつないだら、それはバケモノだった。というギャグです。すずが大げさなことを言ったくせに相手を間違えたから、みんな「……」となったのです。もう一つ、この場面には本当に大事な意味があります。「この世界の片隅に」というすずのセリフが題名を連想させ、その題名が指す、周作が広島のすずを見つけたことが、「うちを見つけてくれてありがとう」ということばで受諾されたのです。いいかえると、ここではじめて二人は本当に結婚しているといえるようになった。それまでは何かが欠けていた。鬼いちゃんはそれを見て安心し、山に帰り、物語はここでファンタジーをやめ、リアリズムに移行します。ここまでがファンタジーだったのは、右手を出すためです。ファンタジーである右手がすずに直接影響をあたえている以上、このまんがの大半はファンタジーとして読まなければなりませんし、ファンタジーが終了したあとは、リアリズムとして読まなければなりません。

        親コメント
    • マクガフィンというのはアイデンティティのみが必要な小道具のことで、そこにあることのみが役割です。「宝の地図」のような大事なもので、それをめぐって大騒ぎするけど、べつに「大金庫の鍵」に変えたところでなんの違いもないようなもののことです。そういう「宝の地図」に意味を読み取ろうとすると深読みの泥沼にはまります。
      人物はマクガフィンにはなりえません。

      あらゆる物語は女を中心にまわっているので(そう作らないと超ウソくさくなる)、女性を男性でたとえるにはよほどの注意と根拠が必要です。
      ついでにいうと、美しい、愛される、残酷は女の定義みたいなもので、これから外れるとやっぱり超ウソくさくなります。美人をブスに変えただけで違う話になるのです。これが理由で女優のキャスティングは大変だし、まんがやアニメの女性はみんな美女。特殊な登場人物か、リアリズム文学みたいな特殊なものにしかブスはいません。リアリズム文学はブス専がブスのでてくる小説が読みたいといって始めたものです。

      > 要は、見たいものを見ただけの話。

      あなたが見ているものが、あなたが見たいだけのものではないと、どうやって検証していますか?ちゃんとやろうとするとすごく大変ですよ。

      親コメント
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私は悩みをリストアップし始めたが、そのあまりの長さにいやけがさし、何も考えないことにした。-- Robert C. Pike

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