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日記

gunwithoccasionalmusの日記: アニメ作品におけるトリック

日記 by gunwithoccasionalmus

アニメに限らず文学一般にはトリックというものがあって、わざわざわかりづらい、誤読させる表現で「わかる人だけわかる」ようにしている作品がある。注意して読むと違和感を感じるところがあり、そこからたどると全体がわかるようになっている。どうしてこんなものがあるのか、理由はいくつかあって、そのほうが深みが出るとか、セールスのために表面的には感動的な話にする必要があるとか、読者を釣って遊ぶとか、たんに作家が楽しいとか、そんな感じだ。「わかる」ためにはかなりの手間が必要で、「わかる人」は極めて少なく、そもそもトリックの存在を知る(作家以外の)人が極めて少ない。「ロリータ」でおなじみのナボコフに「文学講義」という本があり、これはトリックについて書かれた貴重な本だが、この本もトリックを駆使して書かれており、理解していない訳者(英文学者)がみごとに釣られている。

手持ちのアニメBD・DVDは、ほとんどが一度(テレビなら数話)観たものを気に入ってメディアを買ったもので、なんかあるだろうと思って買ったわけではないが、文芸的なトリックが使われているものを数えたところ
テレビシリーズ作品11本中、何らかのトリックが使われていたものが4本、使われていなかったものが3本、不明・未視聴が4本だった。通して見ていないものを未視聴とした。
映画作品16本中、何らかのトリックが使われていたものが7本、使われていなかったものが6本、不明・未視聴が3本だった。

判明分ではテレビでも1/3、映画では半分以上で何らかのトリックが使われていた。合計すると11/20となる。不明分を合わせても11/27になる。
トリックにも大小があって、昨日のHUGキュア映画のようにストーリーが変わってしまうレベルのものはテレビシリーズにはなかった(「けものフレンズ2」は勘定していない)。小さいものだと、キャラのバックグラウンドやイメージが変わるとか、一見ではわからないオチがつくとか、そんな感じ。
この割合は他のジャンルに比べると異様に大きい。比較するのも馬鹿らしいのでよそのことは書かない。

アニメのトリックは、よく考えるとありえない・場違いなセリフや表現がヒントになっていることが多いから※、アニメの演技過剰なところがうまくカモフラージュできるのかもしれない。実写と違い作画の自由度が比較にならないところも利いているだろう。日本のアニメは監督の作家性が高いのも理由だと思う。しかしトリックを見破るには、基本的には細かいところまで丸覚えする必要があって、やたら手間がかかるので、普通のアニメファンも評論家も、そんな見方はしない。作家は決してトリックのことを口にしないから、宣伝も感動を連呼するし、視聴者もそれを受け取って感動作だと思い、実際に見て感動し満足する(あるいは感動できずに叩く)。評論家は忙しいから一度か二度見た印象をもとに評論を書く。結局、トリックに気づけるのは熱心なファンが特殊な見方、丸覚えをした場合だけ、しかもトリックというものの存在を知らず自力で気づくのは非常に難しい。英語の小説の場合は、パースや単語の意味のあいまいさ、冠詞や時制、似たような表現の繰り返しが使われることが多い。どちらかというとアニメのほうが難しい。
好きな女の子に覚えてもらえなかったみじめさや、復讐鬼になったまどかの怖ろしさといったものは、トリックにより間接的に描くことしかできない。もし直接的に描いてしまうと、それは明るいところに出てきた幽霊のようなもので、ちっとも怖くない※※。またこれらは感動とはいわない感覚だ。上で出したナボコフの「文学講義」では、トリックを物語(娯楽や感動など)より上に置いていた。それなら日本のアニメは文学のぶっちぎりの最高峰だ。覚えてもらえないみじめさや、まどかの怖ろしさは、感動よりもいいもの、ということになる。筆者も体験から賛成する。感動のほうも享受できるのだし。
宣伝、視聴者、評論家がみな感動のことばかりを口にし、誰も知らない空白地帯に、感動よりいいものがある。監督はその空白地帯でとやかくいわれず思う存分に作家性を発揮している。だから本当はここがないと評論にはならないのだが。ここは監督が直接支配する迷宮であり、ここに入ろうという視聴者は、道筋、彼の意図を見つけねばならない。普通に物語を楽しむぶんには監督の意図など考えなくてもいいものなのだが。ヒントを見つけトリックの解読にかかったら、あとは意図に従って探して考えるの繰り返し。大好きなプリキュアやまどかマギカでもけっこう辛かった(まどマギは超難しいし)。誘導はそれなりにあるのが普通だ。

トリックと普通の演出の境界はあいまいだ。トリックはたいてい「一見関係のなさそうな場面が実は関係がある」が、普通の演出は「関係ありそうな場面がやっぱり関係がある」ので、HUGキュア映画など、視聴者を騙しにくる大ネタでなければ、程度問題でしかない。アニメ監督の全員がトリックのことを知っているわけではないが、この境界的な領域での演出は多くの人がやっている。このレベルでも非常に凝ったことができ、たとえば「ワルキューレロマンツェ」では、妻に先立たれたアスコット公の二人の娘への愛を描きつつ、実は娘に差をつけていることをにおわしている。ちょっと見ただけではわからないが、これが父娘の葛藤の原因で、しかし彼はよい父親として描かれているから、娘に差をつけているという事実は視聴者にはなかなか受け入れがたいだろう(最後は等しく愛するようになるのだが)。逆にいうと、視聴者が受け入れがたいもの、はっきりさせると興ざめなものは、なんらかのやり方で明示を避けなければ、感動的な作品から遠ざかってしまうし、そういったものすべて避けると、作品の完成度が下がる。特に、作品が一般論に傾き、輪郭がうすぼんやりとする。アニメの視聴者は感動だけでなくテンプレ的な快さを求め、不快なものを極度に拒絶するから、ますますこういったトリックの必要性が高まる。これがアニメに異様にトリックが多い理由になっているかもしれない。アニオタ様様です。米国CGアニメ映画の客層も似たようなものだが、こちらはすべて直接的に描いていて、そのための技術を発達させたように思える(「ズートピア」は別)。そうすると物語が非常につじつまの合ったものになるが、そうなるとノイズのようなものまでなくなり、筆者にはかえってウソくさくなるか、どうでもよくなる。

※昨日のHUGキュア映画では、敵役ミデンは「ぼくは、もう、憎しみのかたまりなのに」と言う。映画は彼が憎しみからプリキュアを襲ったように思わせているが、そうではないことがこっそり明らかにされている。では彼はいったい誰を憎んでいるのか?という疑問がわくが、消去法でいけばヒロインのキュアエールしかおらず、映画からその理由を探していくと、ミデンの正体は幼い日のヒロインが作ったテルテル坊主であり、カメラの霊が宿っていたが、彼女が忘れてしまったため憎しみをつのらせ怨霊化したと推測される。

※※もし、エールがテルテル坊主を作って忘れていたことを観客に明示していたら、彼女にそのことを気づかせミデンと和解させなければドラマツルギー的に不自然で、だがそうしてしまうと感動的にはなるかもしれないが、女の子の罪作りや、女の子に覚えてもらえない男の子のみじめさは解消してしまう。

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