higの日記: 無名抄 第50話 歌人は不可証得事 1
件の問題文には掲載されていなかったので、いろいろダクッテ見て原文はこれであろうと。
文脈から、「申す」の主語は「われ」=「俊恵」ですね。
歌人は不可証得事
俊恵に和歌の師弟の契結び侍りし始めの言葉にいはく、
「歌はきはめたる故実の侍るなり。
われをまことに師と頼まれば、このこと違(たが)へらるな。
そこは必ず末の世の歌仙にていますかるべきうへに、かやうに契をなさるれば申し侍るなり。
あなかしこ、あなかしこ、われ、人に許さるるほどになりたりとも、証得して、われは気色(きそく)したる歌詠み給ふな。
ゆめあるまじきことなり。
後徳大寺の大臣(おとど)は、左右無き手だりにていませしかど、その故実なくて、今は詠み口後手になり給へり。
そのかみ、前(さき)の大納言などきこえし時、道を執し、人を恥ぢて、磨き立てたりし時のままならば、今は肩並ぶ人、少なからまし。
『われ至りにたり』とて、この比詠まるる歌は少しも思ひ入れず、やや心づきなき詞(ことば)うち混ぜたれば、何によりてかは秀歌も出でこん。
秀逸なければ、また人用ゐず。
歌は当座にこそ、人がらによりて、良くも悪しくも聞こゆれど、後朝に今一度3)静かに見たる度(たび)は、さはいへども、風情も籠り姿も素直なる歌こそ見通しは侍れ。
かく聞こゆるは、をこの例(ためし)なれど、俊恵はこのごろも、ただ初心のころのごとく、歌を案じ侍りぬ。
わが心をば次にして、あやしけれど、人の讃(ほ)めも謗(そし)りもするを用ゐ侍るなり。
これは古き人の教へ侍りしことなり。
この事保てる験(しるし)にや、さすがに老い果てたれど、俊恵を『詠み口ならず』と申す人は無きぞかし。
また、異事(ことご)とにあらず。
この故実を誤(あやま)たぬゆゑなり」。
推測の確認の為です (スコア:1)
誤解しないようにメモ。
通常通りに、申すの主語は省略されていてもすぐわかりました。
でも、ひょっとしてわからないほどの何か罠か裏があるかなと
問題文を探したら、著作権配慮して掲載されてなかったので、
じゃあ、元の古文書原文ならとダクってみたら、上記の通りだと明確に判明したということです。
まさかこれくらいの省略がわからないで、学者さんの日記にコメントとは。
ハッ!ワナか?!
学者さんは華麗にスルーするわな。