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日記

kazekiriの日記: オープンソースの誕生

日記 by kazekiri

VA Researchの歴史においてオープンソースは外せない話題であるが、特に1998年の2月から4月までの期間はVAを抜きにしてもオープンソースにとって極めて重要な出来事が多いのでやや詳細に書いていく。現在、一般的にオープンソースの誕生は下記のように説明されることが多いのではないかと思う。

「Netscapeブラウザのソースコード公開計画の公表を受け、1998年2月にLinuxとフリーソフトウェアの開発者、コミュニティリーダーらがシリコンバレーに結集し、フリーソフトウェアに替わる用語としてオープンソースという言葉を生み出し、その定義を定め、オープンソースという商標を管理する組織を作った。Linus Torvaldsなどの著名なハッカーがそれに対して賛同し、一般に広まった。」

特にフェイクが含まれているわけでもないし、大概これで問題ないようには思うのだが、何故、この言葉を生み出す必要があったのか?という疑問が湧いてくる気がするし、何故この言葉は意味がゆらぐことがあるのか?といった割とあった疑問を解消するものでもない。また、まるで一夜にでオープンソースという言葉をコミュニティや業界が受け入れたかのような印象を与えるだろう。これらの回答を全て示すわけではないが、疑問への若干のヒントになると思われるので、時系列順にVAの視点を交えつつ書いておく。(他の主要人物からの視点は、O'ReillyのOpen SourcesやRMSの伝記等、既に刊行済の幾つかの書籍を読むほうが良いかもしれない。)

オープンソースという言葉の誕生

前回も書いたように、1997年頃にはVA Research社のLinuxワークステーションとサーバーはシリコンバレーを中心に受け入れられつつあったが、ドットコムバブルで発生していたインターネットサーバーの大きな需要に食い込むまでには全く至ってなかった。ソフトウェア面の信頼はLinuxユーザーコミュニティに近い層からは割とあったわけだが、そこから離れれば全くないに等しく、無料のOSで商売になるわけがないと言われていた。また、ハードウェアでビジネスを進めていくためには、生産設備、人員、サポート体制等のインフラ的な面への大きな投資が必要であったが、投資を得ようにも有力なベンチャーキャピタルは、フリーソフトウェアという無料でかつ共産主義的なイメージを持つソフトウェアに頼るVAのビジネスには極めて懐疑的であった。VA社はこのような逆風を取り除く必要に迫られていた。

そのような状況において1998年1月22日、Netscape Communications社がNetscape Communicatorのソースコードを修正と再配布可能なライセンスで無償公開する計画を発表した。現在のMozillaとFirefoxにつながっていくことになる決定である。

IEに遅れを取りつつあったとは言え、当時のシェア二位のWebブラウザのソースコードが公開されるというニュースのインパクトは大きく、VA社内はこのニュースに沸き立ち、まだ公開もされていないのにこの流れにどう乗るかという機運に包まれていたようだ。そこへ一人の男がマウンテンビューのVA社オフィスへ訪問してくることになった。Eric Raymond(ESR)である。

Eric Raymondはこの前年に「伽藍とバザール」を発表し、フリーソフトウェアコミュニティの中では一躍時の人となっていた。どのような経緯でEric RaymondがVA Researchを訪れることになったのかは私は知らないが、彼はNetscapeの決定を受けて、それを支援するためにわざわざペンシルバニアからシリコンバレーに来ていたようで、そのついでにフリーソフトウェア関連のビジネスを行う企業をできるだけ訪れようとしていたようだ。Ericを迎えるVA社側はCEOのLarry Augustin、VAのマーケティング担当でありSVLUG会長でもあったSam Ockman、業界団体のLinux Internationalを代表するという名目でJohn "maddog" Hall、外部の有識者的な枠?でナノテクノロジー関連のシンクタンクであるForesight InstituteからTodd Anderson、Christine Petersonの二人がESRを迎えての会合に招聘されていた。また、電話でSUSEなどの企業の人間も何人か会議には加わっていたようだ。フリーソフトウェアを贔屓にしていたことは確かのようだが特にコミュニティのリーダーでもないForesight Instituteの人間が何故招聘されていたのかは私には分からない。ただ、VAのCEOであるLarryとしてはこのタイミングでフリーソフトウェアへの逆風が吹くビジネス環境を一気にひっくり返すようなアイディアをなるべく広い視野で募りたかったのだろう。この二人の招聘の判断は結果的に非常に重要な意味を持つことになる。

ESRをVA Researchのオフィスに迎えての会合は1998年2月3日に行われた。会合のテーマは、Netscapeの決定を受けてフリーソフトウェアに注目が集まっている間に同調する企業の出現をどのように促すべきか、そして今回の決定をフリーソフトウェアの業界全体がどのように利用すべきか、というもので、ブレインストーミングのような形式の会合だったようである。この会合の冒頭、VAが直面していたフリーソフトウェアに対する印象、特に大企業の幹部層からのイメージが極度に悪いことへの不満がVA側から出された。当時のVAからすれば、FSFから発せられるフリーソフトウェアのイメージも単純な無料という意味のフリーも彼らのハードウェアビジネスにとってはマイナスであったことは間違いなかっただろう。

この不満に対する議論の中、Foresight InstituteのChristine Peterson女史がフリーソフトウェアという言葉の代替となる用語として「オープンソース」という言葉を代替することをさりげなく提案した。これがオープンソースの誕生である。

フリーソフトウェアへの逆風をいかにして克服すべきかという問いに対して、オープンソースという言葉に置き換えるという発想は他の参加者にとって青天の霹靂だったと思われる。コミュニティから少し離れた立場の人間だったからこそ生まれた発想だったのかもしれない。Christine Peterson自身は会合の数日前からそのようなアイディアを持っていたと聞くが、彼女はこの造語がとても受け入れられるものとは思っていなかったらしい。しかしながら、フリーソフトウェアという言葉に強い忌避感があることを様々な局面で受けていたVAの面々にとっては、非常に新鮮でかつ根本的な解決策に思えた。FSFを中心としたフリーソフトウェアからLinuxを中心としたムーブメントであるオープンソースに置き換えることで、無料のソフトウェアではなく、最新の開発手法であることを印象付けることが可能であるように見えたのである。

この日の内にVA Researchと会議の参加者らはLinuxをショーケースとしてオープンソースという旗印の下でビジネスを推進し、その言葉を広めていくことを決めた。そして、フリーソフトウェアの思想、カルチャーよりもLinuxの開発手法の先進性をアピールして、オープンソースの優位性を唱えていくという方針を立てた。この時点でのオープンソースはIT業界にはびこる様々なバズワードと変わらない。しかし、VAがその時点で幾つかのコミュニティに対して大きな影響力を持っていたこと、そしてその場にESRがいたことはこの言葉の浸透に大きな意味があった。さらに、その場でLinux作者のLinus Torvaldsに電話で連絡を取り、オープンソースに対して賛同を得たこともその後に大きな影響を与えた。かなり話が飛ぶが、この後のVA社のIPO時において、オープンソースの生みの親であると株式市場から見なされていたのはこのような経緯もあったからである。

オープンソースの定義の誕生

2月3日のVAでの会合はESRにとっても非常に有意義だったようで、彼は即座にその言葉を使った運動を進めることにした。

ESRは80年代にはEmacsの開発で貢献したりとGNUプロジェクトに近い立場であったが、Richard Stallman (RMS)の開発から組織運営に至るまでの厳格かつ妥協を知らないやり方に不満を抱き、袂を分かった一人でもあった。 1997年に彼が発表した伽藍とバザールは暗にGNU HurdとLinuxの開発体制を比較したものと見なされているが、これはVAにおける会合以前から彼がFSFからLinuxへスポットライトをずらすことを考えていたとも言える。

FSFの教条的なイメージを排し、彼の提唱したバザールモデルの象徴であるLinuxを押し立てて新時代の開発手法をアピールし、今までフリーソフトウェアを受け入れてこなかったスーツ層に訴え、フリーソフトウェアをソフトウェアビジネスの世界に受け入れさせる。この考えに対してVA社で出たオープンソースという言葉での置き換えというアイディアはうまくマッチするように思えたのだろう。

ESRはVAでの会合の直後から行動を開始し、数日以内には、何人かのフリーソフトウェア業界の著名な開発者とTim O'Reillyを含むビジネスパーソンにも同様に連絡を取った。この中で最も重要な意味を持っていた人間はDebian Projectのリーダーを務めていたBruce Perensだった。

Debian Projectは前年の1997年にDebian社会契約(Debian Social Contract)とDebianフリーソフトウェアガイドライン(Debian Free Software Guidelines, DFSG)という文書を公表していたが、そのドラフトを作成したのがBruce Perensである。Debianは元来からフリー(自由)な構成要素だけを利用することを志向していたが、このDebian社会契約は社会契約という形でそれを改めて宣言した文書である。この思想において、何がフリーであるのかという点を明確にするためにその条件を書いたものがDebianフリーソフトウェアガイドラインであるが、ESRはこのDFSGの存在をよく知っていたようで、この文書がオープンソースという新しい言葉を定義するために丁度良い文書だと考えついたのである。

ESRから相談を受けたBruce Perensはオープンソースのアイディアに賛同し、DFSGからDebian特有のタームを外して、オープンソースの定義(Open Source Definition、OSD)という文書を再作成した。この時点でオープンソースという言葉の定義が一応決定されたということになる。さらにPerensはオープンソースのマークを作成し、オープンソースという言葉と共に商標登録することを思いつき即座に実行した。そして、定義となるOSDと商標を管理する場としてopensource.orgドメインを取得した。

(なお、この商標登録とドメイン取得は、PerensがDebian Projectの金銭面や法的基盤を整えるために97年に設立していたSoftware in the Public Interest(SPI)という非営利法人にて行っていた。2006年まで続くopensource.orgドメインのSPIとOSIによる帰属問題の係争はここに端を発している。)

その後、ESRとPerensが中心となり、他に何名かを加えて、OSDと商標を管理するための組織である現在のOpen Source Initiativeの前身となるグループを2月末までに立ち上げた。

この流れで重要なのは、様々な信条を取り除いた上で理想とするフリー(自由)を定義したDFSGという文書からオープンソースという言葉の定義を拝借したことで、このような条件を満たすものをオープンソースと呼ぶとしたことであり、少なくともOSIという枠組みの中では開発手法や文化、政治信条的なものは含まれていないということである。Bruce PerensとしてはDebianでも社会契約とDFSGを切り分けたように、オープンソースから思想を排したほうがフリーソフトウェアの思想を売り込むために有利になると判断したのではないかと私は思っている。それを示すように、初期のopensource.orgにはESRがハロウィン文書を含む雑多な文書を置こうとしていたが、逆にPerensはそういったものを排除するように動いている。

オープンソースという言葉の受容

1998年の2月末までにはOSIの枠組みは完成しつつあったが、オープンソースという言葉の受容に関しては開発者やユーザーコミュニティでは賛否両論であった。2月8日にESR自身が「Goodbye, "free software"; hello, "open source"」という文書を発表し、各所のNewsGroup、ML、そして当時は生まれて間もないLWN.netSlashdotといったメディアに掲載されて議論を呼び、好意的な意見が割と多かったものの激しい嫌悪を示す者も少なくはなかったように記憶している。

ここでESRが早期にTim O'Reillyと連絡を取り合っていたことが意味を持つことになる。

彼が率いるO'Reilly社は当時でも様々なフリーソフトウェアやインターネット関連の技術書籍で知られていたが、Perl Conferenceというイベントも開催していた。Tim O'Reillyは97年のPerl ConferenceにESRを招聘し、伽藍とバザールに関しての講演を要請していた縁からESRとは周知の関係であり、ESRの考え方の良き理解者でもあった。また、O'Reillyはそのビジネスの関係上、Perl、Python、Tclといった言語、Apache、Sendmail、BINDといったインターネットの要素技術の関係者とも近く、フリーソフトウェアという言葉へのビジネス界隈からの忌避感をよく理解していたことから、ESRから知らされたオープンソースのアイディアを好意的に捉えていた。

O'Reillyは4月7日に彼の人脈を使って代表的なフリーソフトウェアの作者らを集める「Freeware Summit」と題した会議を開催する計画を立てた。O'Reillyとしてはフリーソフトウェアの界隈にスポットライトが当たっているこのタイミングで既にインターネットの様々な領域を支えているフリーな要素技術にも注目を集めたかったのだろう。フリーソフトウェアサミットともオープンソースサミットとも冠することがなかった意図は正確には分からないが、招聘予定者らの立場をそれぞれ忖度していった結果だと思われる。

サミットの出席者はサミット後の記者会見出席者のログにて確認できるが、司会役のTim O'Reillyの他、ESR、Linus Torvalds、Brian Behlendorf (Apache)、Larry Wall (Perl)、Guido Van Rossum (Python)、Eric Allman (Sendmail)らがいた。また、電子フロンティア財団(EFF)とGNU製品のサポートを行っていたCygnus Solutions社の創設者でもあるJohn Gilmore、(このリストには掲載されていないが)同じくCygnus Solutions社の創設者であるMichael Tiemannが招聘されていた。

サミット会合ではまず彼らが自身のプロジェクトでの体験を共有し、何故フリーなプロジェクトが成功したのかを話し合っていたようだ。この内容については、Guido van RossumによるPython newsgroupへの投稿が参考になるだろう。最終的に議論は、フリーソフトウェアという言葉が抱える逆風の問題に誘導され、新しい言葉を出し合った。その案の中にはfree softwareを使い続けるもの、また"freed software"という言葉もあったようだが、これらは支持を得ることはなかった。そのような中、Cygnus社のMichael TiemannがSourceware(ソースウェア)を提案し、その後にESRが提案したオープンソースと共に参加者による投票が行われた。投票の結果、15人中9人がオープンソースに投票したとRMSの伝記であるFree as in Freedomの11章には書かれている。私自身は総数が18人と聞いたことがあるのでこの数字が正確なのかは断言しかねるが、少なくともオープンソースに過半の支持が集まったことは確かなようである。

この結果を受け、その場の全員が結束して今後は基本的にオープンソースという語を使っていくことで同意し、サミット後に行われた記者会見でそれが公表された。既にVA Research社、Netscape社がオープンソースという語を使い始めており、さらにO'Reilly社が続くことになった。それに対してLinusを始めとするフリーソフトウェア界の著名開発者がその語を使っていくことを公に宣言した。この事実は非常に大きく、その後の様々な報道でオープンソースという言葉が使用されるようになり、一般にも次第に浸透していった。

なお、ここで興味深いのはオープンソースの定義というものに大きく触れることはなく、それぞれが推進するフリーソフトウェアの開発モデルの優位性等を話し合うことで、オープンソースが開発モデルやカルチャーのように扱われている面があることである。

まとめ

オープンソースの誕生はその語句の誕生、定義付け、受容といった三つの段階があったわけだが、面白いことにその三つの段階は全て異なる場所で異なるメンバーによって起こされたものである。VA社のオフィスでオープンソースという言葉を編み出したのはChristine PetersonとVAの面々と仲間内のビジネスパーソンであり、定義を生み出して実際に商標化まで行ったのは「フリー」の信奉者であるDebian ProjectのBruce Perens、そして主要開発者を集めてオープンソース受容の流れを演出したのはTim O'Reillyである。それぞれの段階での思惑はそれぞれの立場から微妙に異なるものの、共通するのは 様々なフリーソフトウェアが起こしていたムーブメントを如何にしてさらに広い世界へ売り込んでいくかということであり、この段階全てに参加していた唯一の人間であるESRは全てをうまく飲み込み、 このムーブメントを煽り続けるスポークスマンを演じていたと言える。

一方、伽藍とバザールを書き下ろして以降のESRは反FSF的なイメージで捉えられることもあったし、O'Reillyに関してもフリーソフトウェアのマニュアルはフリーでなければいけないというRMSの主張と闘っていたという経緯もあり、オープンソースをフリーソフトウェアと対立する概念として見る向きもあった。Freeware Summitの参加者にしても既にオープンソースに賛同していた者とO'Reillyとの関係が深い者を恣意的に選び、RMSが不参加だった穴に対してJohn GilmoreとMichael TiemannにGNUの論理を語らせて両陣営のバランスを取ったように見せかけた出来レースだったとも言えなくもない。このあたりからオープンソースとバザール的手法との混同、ビジネス寄り等といったような批判、またフリーの自由か無料かといった揺らぎと同様のオープンの意味の揺らぎが発生した一因であったように思うこともある。しかしながら、オープンソースの発明によってフリーソフトウェアの開発者、企業への注目がより集まったのは確かであり、結果として以前よりは自由な世界になったとは言えるのではないだろうか。

次回、VAとオープンソースバブル(仮)。

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