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日記

kazekiriの日記: オープンソースバブルへの道、VA ResearchからVA Linuxへ

日記 by kazekiri

オープンソースという言葉がVA Research社のオフィスで誕生して以降、VAを取り巻くビジネス環境は激変することになった。 創業からの数年間は成長とは言っても微々たるものであり、200万ドル程度の年商、つまり当時の秋葉原の小さな雑居ビルに入居していた多くのショップブランドのPCショップよりも小さいような規模であったわけだが、オープンソースというキーワードが突然脚光を浴びてからは、四半期毎に売上が倍増していくような急成長のペースに乗った。

ヒト・モノ・カネといった個別の内容に分けて1998年から1999年にかけてVA社に何が起きていたかを記していく。

ベンチャーキャピタルからの投資

VA社のCEOのLarryはよくSun Microsystems社のビジネスとの比較を好んでしていたような記憶がある。Sunが高価なSPARCのSolarisマシンをあれだけの規模で売っているのだから、同等性能のIntelアーキテクチャのLinuxマシンを安価で出せば必ず市場はひっくり返るはずだと。その見立ては未来人である我々から見れば正しいし、彼はそれを実現するためにLinux Internationalを通じてLinux関連企業の輪を育て、SVLUG等のユーザ会の会合には10人しか人がいなくても足を運んでユーザーコミュニティの拡大にも注力していた。そして少しずつ着実に利益を重ねていたが、ハードベンダーとして成長に必要な設備、人材、資金が欠けていたことは前回までに触れていた通りである。

Larryはベイエリアの有力なベンチャーキャピタルを回り、自身のビジネスを説明していたが、VA社が自社製品に搭載するフリーソフトウェアの開発をコントロールするような権限を持っているように見えないこと、そしてそもそもフリーソフトウェアをビジネス化するのは特定の領域を除いて困難であるとの当時の一般的な認識から、VA社へ投資しようとする投資家は存在しなかった。

そこへ1998年2月からのオープンソースの波が発生することになる。

オープンソースの誕生以降、オープンソース、バザールモデル、そしてLinuxの三点がセットとなり、急激にメディアでそのムーブメントが取り上げられるようになった。その注目はLinusを中心としたオープンソース開発者だけでなく、やがてLinuxビジネス関連の企業にも注がれるようになった。今まで全く見向きもしなかった層からもにわかにアプローチがかかるようになったのである。これは当初のオープンソース誕生の会議の場にいた者達が企図していたものではあったが、予想をはるかに越える成果をもたらしたのではないかと私は考えている。

その流れの中で1998年10月、VA社としては待望のSequoia CapitalとIntelからの合わせて540万ドルの出資が実現した。オープンソースの流れの中でLinux企業にもスポットライトが当たりつつあったが、Sequoiaとしてはその中でもシリコンバレーのLinuxコミュニティで特異なポジションを築いていたVA社が、ブームとは言えどもやはり彼らからは得体の知れないオープンソースコミュニティという存在を牽引するコアになれるという期待があったのだろう。Sequoiaというシリコンバレーを代表するベンチャーキャピタルの後ろ盾を得たVA社は、この投資をきっかけに他の懸案事項に対して急速に動いていくことなる。

なお、Sequoia Capitalの取りまとめにより、翌1999年6月にはIntel、SGI、そして日本の住友商事などが参加する形で総額2,500万ドルの追加出資が行われた。ここから派生していくことになる日本側の歴史は現法人に影響しない程度でいずれ書くかもしれない。

コミュニティからの人材結集

オープンソースという言葉が受容されていくにつれ、そのビジネスを推進していくためにはコミュニティとの距離感が重要だという認識が業界内や投資家層では少しずつ強まっていった。一般的なプロプライエタリのビジネスであれば、開発は全て自社でコントロールできるが、オープンソースの場合はそうとは限らないからである。

VA社の従業員は歴史的にSVLUGのコアメンバーが多く含まれ、98年当時としては特異なポジションの会社ではあったが、十名そこそこの会社規模からしても当然のようにLinuxカーネルやその他のオープンソースソフトウェアへ影響を及ぼすような能力はなかった。

そのような中、1998年7月、Leonard Zubkoffという男をVA社へCTOとして入社させることに成功した。私が知っている中では最初の名が知れたオープンソース開発者の獲得である。ZubkoffはLucid社で Lucid Common LispやLucid Emacsの開発にも関わっていたと聞くが、一般的には当時のLinuxのMylex(BusLogic) SCSI/RAIDドライバを含むSCSIサブシステムへの貢献で知られているかもしれない。Zubkoffの入社は、VA社のハードウェア製品に対して自社でメンテナンス可能という安心感を顧客と投資家に与えることになる。これは先述の10月に実現するSequoiaからの出資にもつながったのではないかと私は考えている。実際、このポイントが翌年の追加出資に加わった住友商事側の評価点の一つであったことは事実である。

そして、98年10月にはオープンソース運動の立役者の一人であり2月のオープンソース誕生の会議の出席メンバーでもあるEric RaymondがVA社にボードメンバーつまり取締役として加わった。オープンソース運動開始以降、ESRが営利企業に関わるのは現時点でこのVA社だけである。CEOのLarryはコミュニティとの距離をなるべく近く取ることを日頃から強く意識していたが、オープンソースへの注目が集まるにつれカリスマ性を日増しに増していたESRを取り込むのが一番てっとり早いと考えたのだろう。ESR自身も自分の理論を試しつつ、オープンソースコミュニティのコア的な企業が必要だと考えたのではないかと思う。

ESR加入後のVA社はオープンソース第一主義を徹底するようになり、またバザール的な思考が社内を支配するようになった。会社の全てのシステムはオープンソース化され、そしてバザール的な管理、運用がされるようになった。

そして、当然ながら外部からの注目をにわかに集めるようになり、既に必要な投資を集めていたこともあって人材が加速度的に集まるようになっていった。1999年の初夏あたりまでにはLinuxカーネルのファイルシステム周辺の開発で知られるTheodore Ts'o、BinutilsとNFSのメンテナであったH.J. Lu、EnlightenmentとGNOME、X関連の幾つかのプロジェクトで知られていたCarsten Haitzler(Rastermanとして知られる)、Geoff Harrison、DebianのコアメンバーであるJoey Hess、Sean Perry、そしてLinux InternationalのJon 'maddog' HallがVA社へ入社した。99年夏までの1年間に150名ほどがVA社へ入社したが、この内の半分程度は何らかのオープンソースプロジェクト、もしくはコミュニティに属する者で占められ、管理、財務、営業といった部門を除けば大半がコミュニティ系の人材という状況であった。

オープンソースのコアWebサイトの出現

CEOのLarryはオープンソースがソフトウェア業界に革命を起こしていることを固く信じていたし、VAがオープンソースビジネスを主導し、コミュニティと一体化することを望んでいたように私は感じていたが、98年から99年にかけての半年間の人材の結集はそれを内外に印象付けることになった。このLarryの感覚は思いがけない成果も引き出すことになった。1999年3月、売りに出されていたLinux.comドメインを応募価格が低かったのにも関わらず獲得することに成功したのである。

Linux.comドメインは元々オランダ人のFred van Kempenが1994年以降保持していたが、1998年からのオープンソース運動が高まりを受けてLinuxが急速にビジネス化されていくことを感じ、Linux.comドメインの売却に動いていた。このドメインに対して複数の応募があり、最高の価格は500万ドルだったと言われている。(当時の噂ではMicrosoftも入札したとも言われていたが、まあ... それだけ注目されていたということだろう。)

VA社はこの数ヶ月前に540万ドルの投資を獲得していたが、当然それに張り合う金額を出せるわけがなく、VA社の入札価格は100万ドルだったと言われている。ただ、VA社はLinux.comを自社製品の宣伝には使用せず、コミュニティ自身が運営するサイトとする提案を同時に行った。VAの提案にはLinux Journal、Slashdot、FreshmeatといったLinux関連メディアや何人かのコミュニティ人材を登用したLinux.com運営のための諮問委員会を立ち上げることも含まれており、Kempen氏がその委員会のメンバーに加わるというものだった。Kempen氏はこの提案を受諾し、VA社は5月までにフルタイムの担当数名と数十人のボランティアが運営するコミュニティサイトとしてのLinux.comを立ち上げた。このドメインの取得で自社製品のゲートウェイにすることを望んでいた他の業者を押しのけたことは、VA社のコミュニティからの信頼を高めることに繋がったと私は考えている。

このLinux.comの開始の直前には、X用のWindow Managerのテーマや画像等のリポジトリサイトとして当時はコアなファンが多かったThemes.orgがVA社の運営サイトになっていた。元々は個人のプロジェクトだったはずのサイトだが、この時期の人材流入でいつの間にかサイトの創始者がVA社の所属になっていたためである。この時期は他にも多くのオープンソースプロジェクトがVA社のホスティング支援を続々と受けるようになっていたが、それらのプロジェクトおよびVA社の社員が関わる数多くのオープンソースプロジェクトを一つの場に集約して支援するという発想が出てきた。この発想の元で一つのサイトの開発が99年夏頃から開始され、11月に正式に運営が開始されることになる。これがSourceForge.netである。初期のSourceForge.netではWebホスティング、フォーラム、バグトラッカー、メーリングリスト、CVS、Anonymous FTPが提供され、99年末までにSourceForge.netには1,000程度のプロジェクトが収容された。

Linux.com、Themes.org、SourceForge.netはそれぞれにVA社の選任のスタッフが配属されていたが、基本的にコミュニティが参加可能なサイトとして運営され、当時は広告が販売されるということもなかった。全てVA Research社がオープンソースコミュニティと共にあることを内外に示すために存在していたのである。当時はYahoo!の影響もあり、ポータル戦略がオープンソースビジネスにも有り得るとする向きもあり、ビジネスモデルの構築に苦労していたRed Hat社もそれに向けて動いていた。また、ボストンの零細なIT情報サイトの会社であったAndover.netが、(不思議な話であるが)当時は最大のオープンソース関連サイトと目されていたSlashdot.orgとリリース情報サイトのFreshmeat.netを立て続けに買収し、世界最大のLinuxとオープンソース関連ネットワークであると売り出していた。そのような中でVA社のサイトは規模的にはAndover.net社のネットワークに準じる二番手のネットワークであったが、営利ではないことはやはり特異であった。

VA社のビジネスの変化

当時のVA社のハードウェア製品はいわゆるショップブランドPCと変わりはない。標準的なパーツを調達し、自社内でそれらを組み立て、そして自社で少々の調整を行ったLinux OSをインストールして出荷するという具合である。NECの製品にLinuxをインストールしただけのLinuxラップトップも販売していたが、基本的には全てタワー型のPCを自社で組み立てるというモデルであった。

オープンソースの誕生以降、それまではLinuxをよく知る層にだけ売れていたVA製品が急激にシリコンバレーを中心とした様々な企業から引き合いがくるようになり、売上が増大していった。自信を深めたVA社は98年の秋までに必要な資金と人材を確保し、ドッコトムバブルに沸く業界で需要の増大が見込まれていたデータセンター用途のラックマウント型サーバーを製品ラインナップに加えた。 VArServer 500と名付けられたこのサーバーは、2Uモデルで350MHz Pentium II、128MB RAM、9GB Diskという最小構成では3,000ドルを切る値付けがされていたが、この2UのLinuxサーバーは価格競争力もあり、一般的なPCサーバーベンダーではまだLinux対応がされていない98年当時としては画期的な製品だったのだろう。VA社としては驚異的な売上を記録し、自社でのハード組み立てが需要に追いつかない状況になった。そのため、翌1999年3月までにはIntelのプロバイダとしても知られているSYNNEX社と契約し、VA社はハードウェアの製造を全面的にSYNNEX社に委託することにした。

SYNNEXにハードの製造を任せて自社ではハード面は設計のみに注力できるようになった結果、VA社はどんどん集まってくるコミュニティ人材のリソースをソフトウェア面に偏重していくことになる。VA社は自社ハードウェア製品のためにLinuxシステムのパフォーマンス、信頼性、スケーラビリティを向上させるためのプロジェクトに人材を投入していった。ただ、VA社は全てをオープンソースコミュニティと共にバザールで開発ということが基本的なモットーであったため、ハードウェア製品の差別化にはつながっていなかった。

このあたりの差別化のためか。99年夏には前項で書いたようなオープンソース開発者のリソースを活用したサポートとプロフェッショナルサービスの事業を正式に開始することになる。この頃のCEOのLarryは、「VA社はLinuxとオープンソースの専門的な知識と経験と売っている」ということをよく話していた記憶があるが、彼自身もVA社の製品のハード面の競争力や自社に集まる人材をよく理解していたのだろう。ただ、それに反してVA社の知名度がどんどん向上するにつれ、製品として分かりやすいラックマウント型のサーバーが売上の大半を占めるようになっていった。

IPOに向けてVA Linux Systems時代へ

1999年5月、VA ResearchはVA Linux Systemsと社名を変更する。会社の製品が何であるのかをはっきりさせ、またLinuxというワードを入れるほうがビジネス的に有利だと判断がどこかにあったのだろう。前項までの流れの中、昔を覚えている人達のVA社の記憶はおそらくこの時期からのVA Linux Systems時代であると思うが、「Linuxとオープンソースの専門的な知識と経験」を売ると言っている会社の名前としては若干の矛盾を抱えていると私は考えていた。

ただ、幾つか不安な点が出てきつつも1997年度7月期でVA社は270万ドルの売上でしかなかったものが、1998年度には550万ドル、1999年度は1770万ドルと売上を拡大させ、ヒト・モノ・カネが集まり、シリコンバレー周辺のドットコムバブルがどんどん膨らむ中、にわかに株式公開の機運が高まっていった。

1998年のオープンソース誕生からわずか1年半分の出来事しか書けていないが長くなったので終了。 次回、IPOバブルと崩壊(仮)。

次回:バブル期までのLinuxイベント

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身近な人の偉大さは半減する -- あるアレゲ人

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