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kazunosukeの日記: 生きることと死ぬこと 2

日記 by kazunosuke

 昨日は久しぶりの決起集会(なんの?)。
そのメンバーのひとり某YT氏とは高校以来の友人なんですが、
彼がこの春から別の土地で生活する可能性があるとのこと。
いろいろありますね。

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  サイゼリアでだらだら他愛もない話をしているときに、村上春樹の『ノルウェイの森』文中の

 「生は死の対極としてではなく、その一部として存在している」

という話題が出てきました。
以前は「そうだな」と思ってましたが最近では違った考え方になりました。

 「生は死の対極ですらない全く別のものである」

僕は今ではそう考えています。
いつも死を内包している考えっていうのは変だと思うわけです。
自分が死につつある状態だったとしても、現に生きているわけですから。
テーブルの上のりんごがいつかはなくなることを前提としてそこに存在しているわけではないのと同じように。
りんごはただそこにあるのです。
りんご自体は「りんごがない」という状態を語れないのです。
りんごがテーブルの上にない常態とは切り離して考えるべきだと思うのです。
#「りんごがなくなったら・・・」というようには考えられますが。

 職場で隣の席の先生が
「“生きるということ”についての小論文を書かせたら、みんな“死ぬということ”について書いてきて困ってるんですよ」
と言っていたのには、なるほどなあと思ってしまいます。

#昼間のネタではないですね。。。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  •  >死という結果から、現在ある生という事実を見つめることしかできない

    確かにそう考える方はたくさんいらっしゃると思います。だけど
    「死という結果から、現在ある生という事実を見つめることしかできなくても自分が生きているという事実」は
    変えようがありません。
    (自分が)死を感じても生きているんですよ。
    (自分が)生を感じなくても生きているんですよ。
    どうやっても生きているんです。
  • by Anonymous Coward on 2003年03月28日 21時20分 (#288787)
    生という状態から想像の翼を広げることは、とても困難なことです。

    死という結果から、現在ある生という事実を見つめることしかできない自分
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