kazunosukeの日記: 『ボウリング・フォー・コロンバイン』 8
『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観に行ってきました。
いろいろ考えさせられることが多い作品でした。
この映画がカンヌで特別賞を受賞したり、日本で支持されたり、
アメリカアのカデミー賞(ドキュメンタリー部門)を受賞し、その式の際に
賞賛の拍手とブーイングが同じくらいあったことも納得できます。
僕は各国それぞれ反応の違いがあって良いと思いますよ。
日本人からすれば監督のマイケル・ムーアの言うことに簡単に賛同することができます。
すなわち「銃社会は下らない」と。
ただこれは最近増加傾向にあるとはいえ、まだまだアメリカの比ではない“銃と無縁な国、日本”の
意見に過ぎません。
生まれたときから銃がそばにあって、「銃をもつことは当然の権利である」と
考える人が多いアメリカに、その意見を押し付けることは、
相手の立場に立って考えているとは必ずしも言えないでしょう。
#平和ボケした人が生まれたときからインティファーダのど真ん中にいる
#パレスチナの人々に「石を投げるのをやめろ!」と言うのに近いです。
じゃあカナダはどうなのさ?
と、マイケル・ムーアは言ってました。アメリカと同じく銃社会であるカナダですが
(世帯別の銃保有率はアメリカよりも高い)、
その銃犯罪の件数からいうとアメリカの100分の1です。
やっぱ、アメリカだめなのさ。映画では更にこうも言ってました。
報道は常に視聴率重視で市民に余計な危機感を煽るだけ煽るのに、
実際の犯罪件数は過去何年かで見れば確実に減少している。
しかし凶悪犯罪報道率は何百%もアップし、あたかも犯罪そのものが増加しているように見せている…
と、マスコミによるアナウンス効果の批判をするわけです。
確かに日本もそうですが、マスコミによる過剰ともいえる視聴率合戦の結果、
真実は逆に伝わりにくくなり、ショー的な要素だけがクローズアップされている現状を生み出しています。
しかし、そんなことを言ったらアナウンス効果を否定しているこの映画も
アナウンス効果を立派に発揮していることに同時に気付かなければいけません。
『ボウリング・フォー・コロンバイン』は反米的な考えを持っている人ほど賛同しやすい作りになっています。
いわば「身内からの告発」であるため、自分の中で、より納得しやすいのです。
いかにもアメリカ的な考えを持つ敵役に全米ライフル協会会長のチャールトン・ヘストンを置き
それを批判的な角度から撮影する。
そうすれば反米的な感情を植えつけることは決して難しいことではありません。
僕は銃社会には100%反対です。たとえ平和ボケしている日本人の意見だったとしても。
だけど、この映画を100%の善なる考えとし、また同時に100%賛同することはできません。
全てが正しい思想などないと僕は考えるからです。
「~と、あるべきだ」「~で、なければならない」と結論付けるのは簡単です。
しかし、それはいつでもできるのです。
結論を決め付けずに、ただひたすら自分と反対の意見の可能性を残しつつ考える。
それが大事なことではないでしょうか。
Stupid White Men (スコア:1)
と言ってみたい。おいなんだよこりゃ、黒人が訳したのかい?と
黒人がジョークにしそうだ。
銃社会で暮らしてみたけれど、身近に起きる銃犯罪は一度もあり
ませんでした。それはSARSがあれ程騒がれている割に、身近に
感染者がいないようなものです。
There is no spoon.
素材の扱い方 (スコア:1)
典型的な例ですね。
真実を的確に伝えるのは難しいですね。とても。
テレビを観ればアメリカ・ヨーロッパの人はアジアに行ったら必ずSARSに感染するように
思っているかもしれません。
Re:素材の扱い方 (スコア:1)
> SARSに感染するように思っているかもしれません。
その話題がTimeとNews Weekの表紙を並んで飾っている所を見ると
かなり気にしていると思います。New Zealandでもピリピリしていま
すよ。
There is no spoon.
体調ワロし (スコア:1)
SARSでないことを祈ってます(げほげほ。。
お大事に (スコア:1)
There is no spoon.
朝練 (スコア:1)
今日の部活動は自主練でおねがいします。
#って、いつもじゃん?
映画は観てませんが... (スコア:1)
最近ふと考えるのは、明確な立場に加えて、冷静な傍観者としての一面「も」キープし続けることはできるんだろうか、ということだったりします。つまり、意見や立場ははっきりしてるんだけど、一歩引いた位置から全体を俯瞰している自分もいる、みたいな。
銃社会とか戦争とか宗教とか政治とか医療とか教育とか自然/動物保護とか論争のタネはいろいろあるけど、感情的になってしまって、傍観者の視点が抜け落ちると、どんどん強情になって、態度が硬直化して、極端な方向にエスカレートしちゃうのかなぁと思います。
でも、ただの傍観者でいるうちはなんの行動にもつながらないわけだし、行動するためには、ある程度の感情(熱中、情熱、共感)が必要ってあたりが、うーん、難しいなぁと。匙加減っていうか、バランスっていうか。
# ここらへんは哲学関係の本とか読めばわかるのかな...
そもそも、当事者でない人間が何を言ってもリアリティがないばっかりで、余計なお世話っていうのもありますけどね。でも、第三者的立場だからこそできることもあると、信じたい気持ちもあるわけで...
ええと、まあつまり僕も、気軽に銃を所持できるような社会には反対だってことです。
-- cooper
ぜひ観て下さい (スコア:1)
あえて自分で「第3者的な視点」を作るようにしているふしがあります。
熱中するのは良いんですがそうすると周りが見えなくなって、周囲の人は迷惑する
…そういったこともあったので。
でも醒め醒め人間にもなりたくないので、結論は「中庸」ですか(「つまらない」とか言わないで)。
合言葉は「冷静と情熱のあいだ」で。
#ハイ、消えた
>ええと、まあつまり僕も、気軽に銃を所持できるような社会には反対だってことです。
理想論かも知れませんが「せーの」で、なくせれば良いのにって思います。
銃も戦争も。。