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日記

ken_non_sumの日記: 辞書と付箋との相性

日記 by ken_non_sum

自分の記憶や学習の能力を過信してはいけない、というのはわかっているのだけれども、本の文章に線を引く、とか、ページに印をつける、とか、端を折る、なんてことは好きではない。

いま、小学館の CM だったかな、辞書に付箋を貼って学習しよう、みたいなのがあるのだけれど、それを見て少しく違和感をおぼえたのだ。

だって、辞書には要点も何もない、建前のうえでは、全部が有用な記事なんだから、付箋を貼りつけていったらきりがないじゃないか、そんな思いが頭をめぐった。
どうしても重要だと思うならカードなりなんなりに書き出しておくほうがいいだろう、とも。
;; 今どきカードとか流行んないですかそうですか。ボクもやってないし。

参考文献に付箋を貼る、みたいなことは昔はしたことがあったけれど、最近は、そういう必要があるときには、著者、書名、出版社、発行年、ページをメモに書き留めるようにしている。もっとも、いま手許に付箋があればたぶん使いもするだろうし、プロの人にはもっといろいろやりようがあるのだろうとは思う。

普通の本のことはそれでいい。付箋を貼ることへの違和感は、辞書に対してこそ感じるのだ。

辞書というのは、あることばについてその意味を知りたいときに、そのことばで以って引くものだ。ならば再び引く用事があるときには、同じように引くだけであり、付箋を頼りにはしないはずだ。

それとも、引いた、という事実を記録しておきたいのだろうか。
なんのために?
学習した、という達成感、満足感のためにか?
引いて学んだその内容もその行為の事実も憶えていないから付箋を頼るのだとすれば、その達成とやらはまるっきり幻想じゃないか?

違和感の正体はこれだ。
付箋を貼るという行為が、知的な活動へのたすけになっていないから、この知を、知的な努力という行為のあとを、自分を飾り立てるための装飾ていどに考え弄んでいるように見えるから、辟易しているのだ。
自分は学んだ、というのに費した時間の経過以外の何物をもそれは表現しない。それがどうにも不誠実な気がするのだ。

まぁ、どこぞの暗闇で偉大な先生みたいな態度を支持するつもりはないし、その人の本をどう使おうがその人の勝手なんだけれどさ。
;; あの時代に貼って剥がせる付箋、なんてのがあったら、どうなっていたんだろうか?

;; 辞書に付箋とか、本にマーカーとか、バカのすることだろ?みたいなタイトルにしようと思ったが自重した。
;; さすがに齋藤孝を軽んじることはできない。
;;; ボクじしん、本に線を引くのが上手でないからイヤになっているというのを自覚してもいる。
;; この点、渡部昇一も「知的生活の方法」で、本はどんどん汚してしまえ、みたいなこと言っているよな。
;; 関係ないがあの本も今見ると(特に後半は)ずいぶん俗でバブリーな話をしている感がある。

追記

上述のことは、辞書によってある語彙がどう表現されているかということ自体が研究対象のばあいについては、もちろん想定していない。つまりその場合辞書じたいが参考文献なわけだ。それは「辞書を引く」のとは違う。
そうではなくて、辞書の記述を正しい、習得すべきものという前提で引いて、学ぶ、という営みにおける所作の是非をいっているのである。
辞書を使って学ぶ、というならば、その記事の知識を自分の身に収めるべきであるが、参考文献として用いるばあいはそうではない、ということである。
しかし、だとすると、付箋そのものがいけないんじゃなくて、付箋を使う姿勢が気に入るとか気に入らないとか、そういうことだったのかなボクが感じたのは。
よくわからなくなってきた。

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