kubotaの日記: 死んでくれてありがとう?
でも、その説明ってなんだか苦しくないですか?
まず、終戦の時期は、天皇制存続をめぐるかけひきによって決まったというところが大きい。もし終戦のタイミングが良かったというのなら、そのへんの交渉をやっていた人々に感謝すべき。たぶん多くの人はそんなの偶然じゃんって言うだろうけど、そして、ぼくもそう思うけど、それを言うなら、戦没者と終戦のタイミングのほうがそれよりはるかに因果関係が薄い。
それに、もし多くの死者が出てなくて日本がまだ戦争を続ける力があったとすれば、戦線は本土じゃなくて別のところだっただろうし。うーん、つまり、死者が出て日本が負けかかったからこそ本土決戦なんて話になったわけでしょう。
たしかに、日本が負けてくれてよかったというのは、ある。そして、日本が負けるためには、それなりの犠牲者が出ないと負ける気にならなかっただろうというのも、わかります。しかし、それなら、戦没者を殺した相手国の兵士に感謝しなければいけなくなるけど、そういう話は聞いたことがないです。それに、戦没者は、日本が勝つための行為をしていたのです。それが死んだために感謝されるのなら、たとえば犯罪者が死刑になったとき、街に平和が戻ったのはその犯罪者が死んでくれたおかげだ、その犯罪者よありがとう、ってなことになるけど、これって、変でしょう。それに、日本が負けてくれてよかった、という理由づけの場合には、戦争に反対した人々こそがまっさきにクローズアップされるべき。
ドイツが分割されたのに対し、日本が分割されなかった(代わりに朝鮮半島が分割された)、というのは、戦没者のおかげでしょうか? 戦後の占領をどうするかを決めるにあたって、米国は日本がぜんぶ欲しかったので原爆を落としてソ連などに対する牽制とした、という話を聞いたことがありますが、仮にそうだとしても、原爆そのものに意味があるのであって、それを人間が住んでいるところに落としたということは、それよりかは重要性が低い。それに、この論法によると韓国人・朝鮮人は原爆の犠牲者のことを憎まなければならない (おまえらのせいでおれらが分割されてしまったんだ) けど、それって変でしょう。
それから、「彼らの命と引き換えになったのは他ならぬワタシの命」ですが、それは個別の議論をしなきゃならない。ある人が死んだおかげで、自分もしくは自分の親が生きる確率が上がった、ということが説明できれば、それは言える。(ただし、空襲で爆弾が落ちたのが自分の家ではなくて他人の家だった、というのでは、因果関係とは言えません)。それはほんとに、個別の状況でしか言えないことで、逆に、ある人が死んだせいで別の人が生きる確率が下がったという事例だってあるでしょうから、全体としてどっち、ということは言えないと思います。
まとめると、兵士であれ、空襲であれ、かれらの死に「尊い犠牲」という意味はなく、ただ無意味に虫けらのように死んでいったのです。
そして、誰しも、虫けらのように無意味に死にたいなんて思わない。だからこそ、虫けらのように殺されていった戦争の犠牲者のことを忘れないことは重要なんだと思うのです。それはもちろん、国籍、民族、軍人、一般市民、戦争に反対して死んだ人、を問わず、です。沖縄の「平和の礎 (いしじ)」はこの理念に近いと思います。(平和の礎って、戦争に反対したために獄死した人とかって含むのだろうか。もし含んでないのなら、含んでほしいなあ)。
教科書問題については、共通の教科書を作ろうという動きがたしかありましたよね。最終的にどこまで歴史観を共有できるか、というのは分からないですが、そういう努力をするということはとても大切だと思います。
そうですね、DoS アタックかけたりとか、民族の数だけ歴史観もあるなんて開き直ったりするよりかは、そういうところで努力してほしいですよね。お互い。