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kubotaの日記: 殺してくれてありがとう?

日記 by kubota

失敗のおかげで二度と失敗をするまいと決意するようになった、というのは、まあその通りでしょう。「戦争で日本人が大勢死んだ」→「生き残った日本人が、戦争はもうこりごりだと思った」→「戦争ではなく、平和に向かって努力した」→「繁栄」、という因果関係の鎖がある、というわけですね。

しかし、2点。

まず、因果関係の鎖をもっと伸ばしてみましょう。戦争で日本人が大勢死んだのは、直接的には、相手国に殺されたからです (空襲にせよ、戦死にせよ)。それに感謝しますか?間接的には、日本軍の無謀な作戦なんてのもあったかもしれませんが、それに感謝しますか?大勢の日本人を殺した原爆を落としてくれた米国に感謝しますか?なぜ因果関係の鎖をそこで止めてしまうのですか。「戦没者」→「繁栄」という因果関係よりも、「殺した」→「死んだ」という因果関係のほうが、はるかに単純明解で、誰の目にも明らかです。こんな明確な因果関係を無視し、「因果関係の鎖」を戦没者のところで止めてしまうのは、不自然だとは思いませんか。

2点目は、因果関係の鎖をもっと縮めてみたらどうか、というものです。最初に書いた因果関係の鎖には、生き残った人々の意思が介在しています。人間の意思、しかも自分たちの意思が、あたかも物理現象や自然の法則のごとく、客観的に描かれています。しかし、人間の意思はまず第一にその人自身の責任ではないでしょうか。周囲の環境はその次です。犠牲者をたくさん出さないと戦争はいけないということが分からなかったのは、生き残った人々の責任ですし、逆に、たくさんの犠牲者から戦争はいけないという思いに達したのも、生き残った人々の選択です。第三者が客観的な立場から、日本の世論の動向を分析する際には、そこに因果関係を認めるのもよいでしょう。しかし、自分自身の意思についてそれをすることは、単なる責任回避です。まるで、犯罪者が、自分の犯罪を環境のせいにしたり、責任能力がなかったことにしたり、ということを主張するようなものです。(生き残った人々が犯罪者だと言いたいのではありません。念のため。単に、自分の意思と責任と選択を棚に上げていると言いたいだけです)。

上で「不自然」だと書きましたが、「戦没者」→「繁栄」が、遺族を慰めるための物語だ、と解釈すると納得できるものとなります。あるいは、死者に対する「畏れ」によって判断を停止している、と。

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普通のやつらの下を行け -- バッドノウハウ専門家

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