kubotaの日記: Markus Kuhn の異文化攻撃 9
Markus Kuhn は、一部では i18n エキスパートとして信頼されているかもしれないが、たまにこんなことを言う。
訳してみると
bidi {訳注: 右→左、左→右の双方向} テキストターミナルについて考えれば考えるほど、POSIX プラットホームは普遍的な bidi サポートを持とうと試みるべきではない、という思いを強くする。特殊用途のソフトウェアの外では、つまりファイル名やシェルスクリプトなどでは、ヘブライ文字やアラビア文字は使ってはならない。もしほんとうに使わざるをえない (なぜ?) ときには、書く順 {訳注: ヘブライ文字やアラビア文字は、右から左へと読み書きする} ではなく、文字列を左→右の「見た目順」にエンコードすべきである。
右から左への書き順は、右ききの人がのみとハンマーを使って書きやすいという理由で、数千年前に発明された。私の率直な意見では、コンピュータ時代において、右→左の書き順は、居場所がない。右→左の書き順は、主に不合理で宗教的な理由で使用され、もしテキストターミナル上で使用されれば、{訳注: テキストの} 他の部分をめちゃくちゃにしてしまう。たぶん、それは一部の限られた GUI ワープロやウェブブラウザによって、Syriac、ヒエログリフ、数式、縦書き中国語、その他複雑な処理を必要とする特殊なスクリプトなどとともに使われるべきものであるが、ターミナルエミュレータ上で一般的なプレーンテキストについて良いサポートを実現できると期待してはならない。ECMA-48 は、それ以外の私がこれまで見たことのある bidi サポートと同様、満足できないハックである。
思うに、アラビア文字やヘブライ文字をコンピュータ上で扱うための最も妥当な標準は、ISO 233 と ISO 259 である。トルコ文化は、たいした障害もなく、前世紀の初期に使っていた右→左スクリプトをやめることに成功した。長い目で見たときに実行可能な唯一の解決策として、私は、この方法を強くおすすめする。
そういやこの人、Unicode の漢字統合問題についても、中国と日本と韓国は同じ漢字を使うべきだ、なんてことを主張してたものだ。そんなこと、文部大臣 (いまなら文部科学大臣か) にでも言ってくれ。それがどんなものであろうと、各国や各地域の文化をありのままの姿で受け入れ、それをサポートしようと努めるのが、国際化というものではないだろうか。コンピュータは道具なのだから、コンピュータが文化に合わせるべきであって、文化がコンピュータの都合に合わせて変化を強いられるということはあってはならない。もちろん、コンピュータの普及や使用も文化の一部だから、コンピュータの使用や普及によって自然に文化が影響を受けて変化していく、というのは悪くも何ともないが。
こんな主張ができるのは、世界のソフトウェア (プロプライエタリ・フリーソフトウェアを問わず) の動向に対するラテンスクリプト圏の支配力が背景にあるからだ、ということは、たぶん自覚していないんだろうなあ。もし自覚していたら、確信犯的な植民地主義者だってことになる。が、実際はそうではなくて、おそらく、自分が属する文化と他の文化を対等な目で見ようと努力する、ということを知らない、単なる幼稚な思考法にすぎないのだろうと思う。
南蛮人の発想って… (スコア:0)
※だったらあんた一度rtlで英文書いてみろよ、と言いたい。
Markus の発想 (スコア:1)
こういう人 (Markus) が尊敬と信頼を得ているという現実があります。たとえば google とかで unicode とかをキーワードにして検索すると上位に彼が出てきます。実際よく働き、そこそこ使えるものをすばやくリリースしてくるので、そういう点では「使える」人ではありますが。
言ってやりたいことは、実際に言ってやってください。オープンソースの世界は民主的ではありますが、ふつうの民主主義と同様、意見を言わなければ無視されます。ただでさえ、非ラテンアルファベット圏はオープンソースの世界では少数派なのですから (現実世界では、アラビア文字圏、インド諸文字圏、漢字圏がそれぞれざっと10億人ずついますので、決してラテンアルファベットが圧倒的多数派というわけではありません。ただ、それに識字率をかけるとどうなるか分かりませんが)。
世の中は不平等で、ラテンアルファベット文字圏が世界を支配しているというのが現実です。だから、ああいう、明らかに変な意見が出てきたとき、きちんとつっこんでやることが必要なのですが (でないと周りの人まで同調してしまう)、むかし漢字について Markus が同様な変なことを言ったときに、英語がうまく書けなくて効果的な返事を書けなくてくやしい思いをしたので、今回アラビア文字については、ほんの数人のアラビア語人だけに消耗戦の負担を負わせたり、ぼくと同様なくやしい思いをさせたりということはないように、と思うのです。
ところで、「南蛮人」という言葉は、たぶん、欧米人を見下す意図を持って書かれたものと思いますが、ぼくは見下すような意図は持ってないし持ちたくないと思ってますのでよろしく。
Re:Markus の発想 (スコア:0)
>持って書かれたものと思いますが、ぼくは見下すような意図は持って
>ないし持ちたくないと思ってますのでよろしく。
Re:Markus の発想 (スコア:1)
了解しました。ただ、欧米人のなかのごく一部を指すという意図であっても、欧米人全体を指す言葉を使うのはどうかなと思いますよ。文章力の欠如ですごめんなさい、で済む場合はいいですけど、世の中にはそれで済まない場合もありえますので。
差別語なんかについても、差別的でない使い方もできるのだから一律に禁止するのは反対だ、という意見があります。その意見自身はよく分かるのですが、差別的でない使い方をするにはどれだけ文章力が要求されるか分かってて言ってるのかな、といつも思うのです。それだけの文章力は、ふつうの人にはなかなか難しいですよ。もちろんぼくも。あなたのことを言ってるのではありませんが、そういう意見の持ち主が、じゃあそういう文章力を身につけるために「差別語」と言われる言葉にしみついた語感や経緯について勉強しているかというと、そうではない。「差別語」と呼ばれる言葉を使いたいのなら、それくらい勉強してからにしてほしいものです。
Re:Markus の発想 (スコア:0)
「差別語を使うには相応の力量を備えてからにしろ、安直に使うな」という趣旨は同じなのですが、差別語の濫用を防ぐ予防策としての単語の規制は個人的には賛同できません。
そういった単語の規制は往々にして「聾唖者」を「耳か口が不自由な人」と只の言葉遊びに堕した単語の挿
差別語 (スコア:1)
単語の規制に反対するのはいいのですが、それに代わるなにかがありますか、というのが問題なのです。「なぜいけないのか」思考を隠蔽してしまう、といいますが、では何もしなければ、「なぜいけないのか」をみんなが思考してくれますか?
言い換えがいかに不完全な解決策であったとしても、人々の間にフラストレーションやストレスをもたらし、それによってなにか考えるきっかけになる、というくらいの効果はあります。もちろん、差別問題に対する反感を与えて終わり、というケースのほうがむしろ多いでしょうが、それでも、何も考えるきっかけもない、というよりはずっとましだと思います。
言い換えが、弊害の多い対策である、というのはそのとおりだと思います。個々の事例のなかには、明らかにおかしいものもあるでしょうし、理由なく「この言葉はいけないんだ」という事実だけを金科玉条のごとくふりまわす人もいます。しかし、そういう弊害があるのを認めた上で、それでも、何もしないよりはずっとましだと思うのです。別の、もっと良い対策があればいいのですが。
単に、言い換えには反対、と言うだけなら、「差別問題は無視したい」と言うのと変わりません。いくら、「考える機会を奪うから」という、きれいごとの理由をくっつけたとしても。
Re:差別語 (スコア:0)
「差別問題を何も考えなくても決められたとおりに従っていればよいこと」と(私は)させたくないからです。
「考える機会」→「考えることによる選別による自浄効果」が奪われてしまうと、本来ある筈の「自浄効果」が急激に薄れます。
「自浄効果」の代わりに「決められていることによる抑制効果」が用を成してくれるからです。
ですが「抑制効果」にて想定されていた上限を超える事態が発生したとき、その事態を収拾す
対案は? (スコア:1)
「言い換え」は、そのようなひどい弊害があるにもかかわらず、 それでも、「何もしない」よりはずっとましです。 何もしなければ、差別語が使われようとも、誰も何も気付かず、 何も考えも感じることもしないまま、そのまま通り過ぎてしまう という可能性が高いからです。
で、もし「何もしない」よりも「言い換え」のほうが悪ければ、 単に「言い換え反対」で済みますが、そうでないと思うので、 こう聞かざるを得ません。「言い換えに反対なら、なにか対案はありますか?」と。
言い換えの弊害は大きいですので、実際、 なにか実現可能な対案があればなあ、と思います。 なにかいい案はありませんか?
Re:対案は? (スコア:0)
現状として「差別語」の認定は新聞社等の自主規制が単にそのまま既成事実化されている節があるように思えるので、それを公の場で学者、文筆業者、役人等を交えてきちんと討論するだけでも随分と違ってくるとは思うのですが。
単純に漢字を取っ払うことだけが対策ではありますまい。