kubotaの日記: 国なんて
まず、日本はどっかみたいな統一言論の国ではないので、kubotaさんが糞くらえだと 思っている教科書でも国の検定を通れば存在できます。
ぼくの意見はどっちかというと教科書というよりはかれらの意見そのものに 対してです。しかし、まず教科書に限定した話から。
教科書検定と言論の自由とは別問題です。教科書検定はそれに対して国家が、 この教科書は教育に使える良い教科書であると評価する、ということであり、 言論の自由にかかわるものつまり検閲ではありません。 つまり、国家が、今回の教科書に含まれる意見というか価値観は国家にとって 認定できるものである、と判断したことになります。普通の言論だけなら 勝手にやればいいので、かまわないですが。ここで、「認定」とぼくが 書いたのが、どれくらいの許容範囲を持つものなのかが分からない。 つまり、教科書検定の基準があいまいです。いままで、家永裁判とかでも 分かるように、教科書に著者の意見というか価値観を含めることは、 困難なことでした。ところが、今回はなぜか、著者の価値観がほとんど 削除・訂正されることなく通ってしまった。それに、「国旗・国歌」の 異様なまでに熱心な指導など、教育行政が中立だとは思えない。
よその国についてですが、ぼくは、国家なんてどこも似たようなものじゃない かなと思っています。よその国のことを調べあげたわけじゃないから推測に 過ぎませんが。どこの国家も、国民は国家のために尽くすべし、という 価値観を教えようとしてるんじゃないかと思います。日本はわりかしましな 方なのかもしれませんが、だからといって悪い方向に進む必要はないです。 国定教科書ですか、そんな国はもう論外ですね。
で、「国家なんぞは、人間がよりよく生きていくための道具に過ぎない」といってますけど、 ぼくは主従関係で言えば逆で、人間は社会の一部だと思うのです。 その証拠に、社会のルールはまもらないとつまはじきにされます。
何のためのルールか、ということです。ルールは、けっきょくはその成員や 成員以外の人々の利益になるように、という目的のもとで作られているはず。 国家そのものを目的としたようなルールなんて、ありますかね? もしかしたら、あるかもしれないですが、そんなの、悪法です。 国家以外にも、大勢の人々で共有する道具っていろいろあります。 たとえば道路などの公共施設。道路をわざと汚したり使えなくしたり するのは悪いことですが、かといって、人間は道路の一部ではないですし、 人間は道路のために命をささげるたり、道路のことを誇りに思い、 道路のために旗を立てて歌を歌ったりはしないでしょう。 ぼくは道路も国家も同じだと思うのです。国家のほうが 規模もでかいし仕組みも複雑ですが、でも道具という本質は同じです。 (というか、同じであるべきなのに、身の程をわきまえずにそれ以上の 帰属意識を要求するのが、国家というやつです)。
多分Debian Projectだって、吹奏楽団だって、同じだと思います。
ルールはあります。しかしそれはルールのためのルールとか、 「公」そのもののためのルールではなくて、 それぞれきちんと目的があってのルールです。
ここで国家が特別なのは、国家は生まれた時点でその意思とは関わりなく 強制的にその一員となり、簡単にメンバーになったりやめたりすることが できない、というところにあります。それに、国家はいろんな権利や義務が いっしょくたになった団体なので、その一部だけがいやだ、というわけに いかない、というのも、簡単にやめることができない原因となっています。 普通の団体なら、変なルールがあっていやだったら参加しなければ いいだけの話ですが、国家はそうはいかない。 だからこそ、変なルールができそうなときには反対するわけです。 それに、ぼく自身、別にほかに行きたい国なんてないし。国なんてどこも 似たり寄ったりだろうから。
ちなみに、「道具にすぎない」と書きましたが、道具として大切にもします。 みんな、自分の道具は大切にしますよね。大切にしなくて壊れたりして、 結局困るのは自分ですから。ただ、道具としての立場以上に尊重することを 国家が要求してきたら、それは宗教みたいなものですから、お断わりします。
不幸なことは、当時世界が覇権主義のまっただ中で、日本人が望むとも 望まざるとも、戦争をしないといけない状況に追い込まれ、 "お国のためには命をも捨てよう"というのが"社会のルール"に なったことでしょう。
当時の詳しい分析はわかりませんが、日本もまた覇権主義だったのでは? 植民地を取りにいったら世界からそっぽを向かれて戦争になった、という 感じかな。もちろん、庶民が覇権主義だったというつもりではありません。 庶民はたぶん、オブラートにつつまれたタテマエとしての大義名分を信じてたんでしょう。 欧米の植民地支配からアジアを解放する、とか。
もちろんぼくだって戦争も嫌だし死ぬのも嫌だし、そんな"社会のルール"は 不条理だとは思うけど、だからこそその不条理を受け入れ死んだ人たちには ぼくは逆立ちしてもかなわないと思ってしまうのです。
かなおうとなんてこれっぽっちも思っていません。 ただ、当時の人々とてそんなにバカじゃなかったはずでしょうから、 なぜそういう方向に行ってしまったのか、政府はどのようにして人々を その方向に持っていくことに成功したのか、ということは知りたいです。 特攻隊に行くなんて、今の価値観からすれば狂っているとしか考えられない わけです。では、人間はどのような状況に置かれれば狂わせることが できるのか。再発を防ぐために、それを知りたい。 ある意味、それは原爆なんかよりもずっとこわい兵器なのかもしれませんが。
ぼくは、この国には自由があり、「公」の一部ではあっても「公」の奴隷では ないと思います。「公」に隷従したくなければ、まず多様な考えを尊重することで、 自由を維持するべきだと思います。
そういうレベルの話をしているんではないです。ぼくは社会のルールの 範囲のなかで議論をしているつもりですし。 で、その上で、自分の意見として、「つくる会」の基底に流れる価値観は 容認できないと言っているのです。「天皇に戦争責任がある」との発言の ために長崎市長を撃ったような人々と一緒にされたくありません。
それに、「つくる会」は、まさしくその「公」への隷従こそを主張しているのだと 思っていましたけど。
ところで、ここで「公」って国家のことですか?